アフタートーク vol.1


『深遠の明晰』楽日は、音楽がライブ演奏され、曲調や構成も別物でした。そして作品全体の印象も、ぜんぜん違った。それは、いいとかよくないとかのレベルだけではなくて、もっと、なんだろうな、ダンスにとっての音楽、音楽を聴かせるための作品ではない作品にとっての音楽、その可能性と難しさ……を考えるきっかけだったというか。しかも大橋可也&ダンサーズはダンスのハードコアを追及するために、ダンスだけをやるという方法ではなく、ダンスではないメディアやテクノロジーをもって作劇しようとしているだけに、たくさん考えさせられる。
あらためて、音はすごく強いもので、おおきな要素で、それは存在感がはんぱじゃないので、作品のスケールとして聞こえると思った。他の主たるエレメント(ダンス・明かり・ステージ環境・セット・衣装・演出・・・)が孕まれたものとしてカッコにくくられてしまう。音は作品の意味を規定し、雰囲気を作り出し、分母として届いてくる。このことについて、考えることがありすぎる。
いちどゼロにしてみるというやりかたを妄想する。そう、音のない世界をもちいるとして、それは耳が聞こえる人にとっては、非日常の空間になる。作り手が意識してできるだけ無音の空間を捻出しようとしているとしたら、それはどういう効果が期待されているのか。一方で、狙ってやられた無音的な空間だったとしても、ときにその空間をなんとなくわざとらしくって演出過多のように感じるかもしれないという直感。音を削った空間が過剰を感じさせる、そういうケースだってあると思う。と、このように「使うと使わない」「ONとOFF」のように音を割り切るというのも浅はかだった。使い方も意味や雰囲気に強く作用するはずだ。曲調や構成についても様々なアイデアが浮かぶ。
ステージに、まずは都会の人間や社会の日常や現状を現すために踊られる作品があるのなら、そこに用いる音楽っていうのはどのような音がいいんだろうか。どんなやり方が効果的なんだろうか。
もしかしたら効果的な音を使うことが良いことだけではないかもしれない。「効果」とは何を言うか。足し算のセカイ、引き算のセカイ、割り算や掛け算のセカイ、微分積分のセカイ、乗算のセカイ・・・
そうだ。『深遠の明晰』の後半、あの時フロアに居たのはたしか全員だったと思うが、ダンサーがスクリーンに向かって(正対する客席には背を向けた状態で)よろめきで近づき、うしろから誰かに旋毛から引き倒されるように、逆でんぐり返りを繰り返す群舞のヴァース……眺めていたら……漣にやさしく呑まれてしまったかのような……過去と未来のはざまに置かれた揺り椅子にあやされているような……浮遊だとか酩酊だとか眩暈だとか……そしていつの間にかこらえることに懸命になっていた、こらえること、こらえることに、こらえさせられていたこと、あの、それまでの7,80分の作品時間に涵養された臓腑の底を割るように込み上げてきた熱いモノの正体は嗚咽だ。そういう情感をドライブさせる奇跡的なシーン。言葉のない。説明のない。台詞のない。ダンスを眺めながら。あんなにも極まりそうになったあのシーン。それを思い出しながら、そうだ、「良いことだけではないかもしれない」と思う。
ああいった方向から感情を突くヴァースが終わり近くにあった。それは作品の主題や可能性にとって豊かなことだったんだろうか。たしかに浄化されていく、だから救いはあるのだけれど、しかもしなやかでうつくしい救い、ただ、あの場で観客を救うことだけが、たぶん、唯一の救い方ではない。ひとつには、これまでの大橋可也&ダンサーズ作品の終幕にあったような、突き放されたような感じ、終わりのない感じ、始まったり終わったりするという感覚の虚飾性を暴露するための荒廃した地平が際限なく広がっている感じ、ある痛みを別の痛みによって消すという感じ、そういったやりかたの救いのこと。
なんて、こんな風に感動を穿うオレは小難しい客だなと、いちど自分にくたびれる。


マクロじゃなくミクロで。どうやろうかと。たとえばクラブダンスをやってたときはどうたったろう。サウンドにリズムを得るサークルに弾き出されるようにして円心に飛び込んで来た対面のダンサーを睨んでいた瞬間はどうだった?あるいはフットボールであったなら?ゲームを眺めればそのフィールドで誰が一番ポテンシャルがあるのかくらいすぐ分かるんじゃないか?みたく疑問を解消する方法を親しみの深いジャンルに移して再検討することはかなり有効かもしれないと思ったがハッとする。それは「コンテンポラリー系じゃなくストリートダンスなら一目見ただけでダンサーのセンスが分かるんだけどな、もしくはダンスよりフットボールや料理ならもっと上手ずにナンか言えるんだけども」というフレーズの危うさだ。なまじ経験があるだけにドグマに陥ってしまいがちだというアレの話。やはりダンスを「作品のテーマやフレームを汲み取る」式の見方ではなく「ダンサーの動きなどに近づいて」見ていくというのは難しい。
ダンスが分かるってなんなんだ。
かりに観劇の経験を積んで、じぶんでも踊ってみるなどしても「技術/方法論/経験値」それらの「優劣」は個人的な見所としてはアリだけれど、それを価値判断のトピックにしたドヤ顔の文章ばっかりだっていう「読み物/書き物」の世界が嫌で腹立たしくて別の可能性を探るために批評を考え出したその初心は、いまだ燃えているので書くつもりは毛頭なく、あるダンサーや作品を前に「上手」とか「下手」とか「価値がある」とか「無意味」みたいな物言いをさせるのは「ダンスでなく言葉の体系に準拠させた野暮/誰かが言い出したり決めた価値観の流用/うまいこと言える自分アピール/ダンサーや作品から乖離してくというナンセンス」などあたってしまうことしきりであって「踊りを見る」ことから逃げてるんじゃないのか。まして、大橋可也&ダンサーズのように、そういった「上下」「優劣」「テクニック・アピール」みたいな位相だとか「ダンスシーン」というコミュニティに依存しないように作劇を模索しているカンパニーに対してそういった書き物は無意味に近い。とはいえ、あれこれやってるうち「フェチズムに拠る差別」という貧困のドツボという墓穴もご丁寧に設えられた暗中だ。


佐々木敦は何かのインタビューで(アラザルvol.2だったと思うが)ユリイカで連載中の『即興の解体』について「あの論考は美学と倫理から離れたところで書いています」と述べていた。
美学、というのはなんとなくわかる気がする。ただ、ここで言われてる「倫理」が「それは意識してるうち自家薬籠中の物になってしまい、やがては「ミーイズム」に化ける。ここに至って倫理とはすなわち美学だ」という定義でないのだとすれば、倫理から離れるとはどういうことだろう。倫理から離れるというのは、どうやって書くっていうことか。というのも、おれが批評家養成ギブスで批評課題に際して、一番最初に気になって、結局は終わりまで頭から離れなかったのが倫理感だったからだ。
公にする前提の批評文を、どう書くか、内容や形式や文体については勿論いろいろ考えるが、まずは誠実にやるってことなんじゃないのか、公を誠でやる、しかもこれは「批評者-批評対象の作り手」のダブルで閉じられることなく「読者」が条件付けられているトリプルだ。いや、もっとも小さい社会として確かめられるトライアングルだ。だから、としての倫理。倫理、からはじめられる批評。まず作品や作り手に誠実であるためにどうしたらいいか。文字数や締め切りといった限界があるわけだから、作者が作品に費やした同じだけの時間を量的に追体験することは難しい。だったら、質的なアプローチならばどうだろうか。おれは、あなたが心血注いで作り上げた作品を、その真剣さを、量としては同じことがやれないので、一度きりの機会に全身神経を注いで、あなたが作った作品と果たし合ってみる、というモチベーションが、たとえば「パラレル(音源や映像を再生したところから書きはじめ、その終わりをもって記述を止める)」という批評の方法論を着想させた。「あなたの小説を読んでいるときに、わたしは実は「わたし」の一声だけでなく、いくつもの声が挙がっていることを無視した原稿は嘘めいてしまうということを隠さずに、どのような批評がやれるか」という模索が2chのような掲示板書式という批評スタイルになった。それらの源流はやはり倫理だったよな・・・ってずっと思っている。
無論、なにかを拒みなにかを律しなにかを潔しとし、そのまっとうに集中すること――それは美学と呼ぶに充分なモードだが、少なくともここには読者が射程に入れられた公がフレームとされている――という倫理、この定義に誤謬があるだろうか、と探り、ひとつはっきりしているように思うのは「読者」という他者のフィクショナリティだ。批評する作品もその作者も居る。この「居る」の濃度に比べ、はるかに希薄な存在である「他者」とは本当に第三者として機能しているのか――


どれもこれも考え途中だ。スケッチだ。いつかまとまるのか、いや、まとまるっていうのは、まとまったとしたって、それは「言葉」による「意味」の「定義」である限り、リアリティの集積や集約であって、リアルではない。どこまでいったって抽象だ。
「ダンスの体とは日常生活の体を相対化する「詩」であるのだから、とかく、われわれの現在的な困難がダンスに映ると思われがちだが、むしろダンスによって上下左右前後八方十六方・・・の別次元が明らかにされていくことで、その中空=空隙がわれわれの現在として浮かび上がり、困難の発見はその後、この輪郭の内(=隙)に得られる。ところが、この詩を詩たらしめる「現実の体」が見失われている状況こそ現代性の最たるものであるのだから、ダンスの語りうる困難が、その根源的なテーマである「体」の困難でなく、ダンスを自律させる原理としての詩性の消失にすり替わってしまうというパラドックスこそ、ダンスの意味する困難である現状を前に、われわれはどのような術(ムーブ?ポーズ?)をもって日常を回復させるのか。いいや、もはや常態は得られず、ままカオティカルな時間に、孤絶の別称としての集中だとか凝固その持続だけを信じるしか遣り様が無いのであろうか。昨日公開されたある映画に現れている――同時多発的というより多元中継的――という作品構造への志向が、ともすれば全体性への収束(この時点ではまだ全体主義とは言わないが)その模様が個の埋没を印象させ、ひいては「全のために個を……」という危うさを湛える気配の主であるフィクサーは、そうであると同時に「存在する何者かがいるのではないか?という疑念をもたらす元凶とはなにか?それは実に居るのか?もしかするとわれわれが欲していることで召還された悪魔なのではないのか?」という警句としての寓話に――無い、という様で、在る――そのようなアイドルでもあるという両義性の影は、それで、困難に伸びるか、それとも、困難を這うか」
このようなドヤドヤは書くには書けるが、ダンスの影にすらならない。こんなこと言ったからって、それがなんなのか。絵画であるということは、写真であるということは、ダンスであるということは、なんなのか。理屈を述べるための創作は、それは、意識されてる言葉の翻訳だ。そんなことは踊ったり描いたりなんていう遠回りをせず、只、喋ればいいはずだ。ダンスであるっていうのは、なんなんだというのは、そういうことだ。どれだけ綿密に、分析的に、徹底してある言葉や単語や意味や表現を記述=定義したとしても、それはやはり、どこまでも言葉であるなあと思わされてしまうことの連続だ。
アンリアル?かもしれない。ノンリニア?いいや、繋がってしまっているからこそ、たちが悪い。まず切断が要るのか。それは区別化?差別ではないのか?カテゴライズ・・・美学めいていく・・・すくなくとも、おれにとっては、今のところリアルに届こうとしていくための考え事や書き物は、剥き終わらないタマネギの皮を剥いでるみたいなもんだ。目に染みるコイツはなんなんだ。
えんえんとあれこれ書いてるくせに、そういう虚しさがずっとある。あるという前提から始める、いってみればそれが小説だったりする。それが書き物。それが詩。それが散文。そう、それでもう、なにかがカタチになって、どこかに届くまとまりとなって、誰かの目に触れ、なんらかの想像や発想のトリガーにしてもらえるんだとしたら、充分なんだし、もちろん、先人たちが残してくれた辞書に倣い、論考を頼り、思弁を辿ることで今の自分があるのだ。「今の自分がある」。今の自分がある。(今の自分がある)。……あるのか?それはどういうことか?……いいや、ダンスと書き言葉。踊る人とそれを見る人。演者と観者。そのように等式をうつし変奏するまえに、と反省する。『今の自分がある』。ハテナはあれどキーパンチする体があることは疑えない。もしくは「だからこそ」の問答――