ニッポンのダーウィニズム、そしてノアのエクソダス。


・「勘違い、思い込み、見間違い」の修正は思いやりでなく重い槍のように
・音楽は「舩橋さんの演奏」だけではなく、録音されていたfooiの演奏と合奏される時間帯もあった
・スクリーンに写されるフロアのソファは「六人がけ」ではなく「五人がけ」だった
・スクリーンに写される映像は「つねに正面からで/その横線を強調するような」ではなく、斜め上から見下ろされるアングルも用いられている



今日もあらたな着想がいくつもあった。九十分があっという間だった。もしかしたら昨日より時間の流れが速かったかもしれない。これはすごいことだ。一文を刻んでく日本語書きであると自戒せずにいると「すくなくとも同時に七箇所を眺められる眼があったらよかったのに」と言ってしまいそうな野暮だ。七つあったって、ななじゅうあったって、ナナヒャクあったって、すくいとれないものを捕まえるために生きている。そうだ。もっともだ。だが、そうは言ったって、という話もしたくなるじゃないか。あんたの気障はジリツしてるわけじゃないんだ。いいやアタシの罪なすりつけるためにイってるんじゃないのよってなハナシもあるだろう。罪がミッツあったとしたらその内のイっこくらいはアンタのセーかもねっていう肴の名前なんだったっけ。あの水色の薄くて長い暖簾がヒラヒラ揺れてた赤坂のお店のお品書きのヤツの噺。

ダンサー全員がフロアにいるときは、すくなく見積もっても七つの●●●がある。一つを選ぶしかなくって、そこにするのだが、つぎのフェーズにはまた、すくなく見積もっても七つの●●●がある。すくなく見積もって、というのは、七人が●●●であるだけでなく、そこを見ない、ダンサーを追わない、別のなにかを見つめる、もしくは眼を閉じるなどの選択肢もあるからだ。ダンサー全員がフロアにいるときは、すくなく見積もっても七つの●●●がある。そして、つぎのフェーズにはまた、すくなく見積もっても七つの●●●がある。
というスケッチの「●●●」にどんな単語を入れたらいいか。そう。どれにしたらいいか、というところまではまだ届いていない。
舞踏ワークショップの打ち上げのとき「大橋可也&ダンサーズ作品が映画みたいに感じられる瞬間はあるんだけどそうと言い切れない気がしているワケの一つのは、メンバー全員が全メンバーの振りを踊れるようになるという作り方からしてそうなんだけど、あるカット、あるシーン、あるヴァースは、録画された映像のようにメディアの中に止まってる感じじゃなくって、それはもうひとりでに動いたり変化することはないので、それにPCデータならば劣化することもないし、なので振り付けやダンス作品が一人のダンサーに保存のされてるその状態は記録された映像より生生しいし変わっていく感じ、これをなんと言ったらいいのかずっと考えてて、なにかある気がするんです、ああこの単語だったって腑に落ちる瞬間がすぐそこにある感じなんですが、まだ見つからなくってもどかしいんです」という話に「ああ、それはまさに黒川さんがやらなきゃいけないことですね」と応えてくださったとまるさんは『深淵の明晰』のステージに、作品における重要なパートを象徴する旋回で胸を衝く。それははじめ細く鋭い螺子のような叫びだったのに廻り続けるうち「風そのもの」だとか「逆巻く記憶や出来事そのもの」としてまっとうされてしまうので、螺子に開けられた穴は金属や生傷でいられずに戸惑う。そのときの私の揺れは「動揺や混乱というよりも何らかの感動に近いものなのだな」と気づいたのは彼女が廻りはじめてから数秒あとだった。私はこのように、私にすら置き去りにされてしまうのだから、やはり何時になったって貴方の背に触れることすら叶わないのだろう。おそらく諦めるというのは未来で過去に蓋をすることだ。
垣内友香里はこの作品で一人だけ、乗り物に腰掛けたままダンスをする。限定されたあの状態は何らかの拘束をヒントにしたんだろうか。稼動域のひろい上半身の動きに頼るだけでは踊りのイメージを十全には果たせないだろうし、それでいて大仰に施されたメイクを能面のようなものに感じさせる、あの感情の起伏に乏しい性格の設定との心理的な格闘もあろうが、つねに毅然としている。演舞と演技のはざまにモードをとどめておけるから醸し出せる、大画面における印象的な存在感か。三輪車に跨るということが解放や逃走や遊戯とは真逆のテーマをも孕むアンヴィバレンツ。
明日に備えてそろそろ休まなきゃならないので、皆木正純、古舘奈津子、前田尚子、多田汐里、山田歩というダンサーのダンスについては、あらためて書きたい。ひとつだけ、これまでの大橋可也&ダンサーズ作品は、他者の存在に気づかない(見えない)ことで図らずも起きてしまう衝突や悶着(この状態が集団性をつくってしまうので、個は個であるより状態や状況を成す要素という印象が強まる)からハレーション〜ホワイトアウトを経て、終わりには、たとえば瓦礫の山だけがあった(もとからそうだった)ように見える、終末的な風景が現れていたように思うが(振り付けや音楽のアップ/ダウンそれぞれを基調に、最終的にはその断層的な落差をもって物語とそれが語られた(踊られた)地平の変容が観客に伝わってくる構造)『深淵の明晰』は一人一人のダンサーにフォーカスされる時間が大幅に増えた印象が残る。この大橋可也の演出(まなざし?きもち?)の変化と、これまでの作品とは一線を画すような後半部〜ラストが与えられたこととには、密な繋がりがあるのではないか、と思いながら見ている。



明晰の深淵はひょっとすると「ニッポンのダーウィニズム〜ノアのエクソダス」のグラデーションとして読みほどけるかもしれないが、そう言ってしまったらばもうそこに「ダンス」はない。忘れるな。ゼロをイチにしたのはオレじゃない。

明日はfooiのライヴ演奏で上演される楽日。
もう見れなくなってしまうなんて、と思う。