もうあと9/25と9/26の二日を残すのみ。


まず、これから見に行かれる人(迷ってらっしゃる人)に。


・「すすむのだ、もどるのだ、ころがるのだ、しかもわれわれにせをむけ」
・午後8時30分ごろはハンカチ必須!この意味は是非ご体験を!
・一度きりの観劇ならば一階席の真正面をお薦めしたい
・音は大きいが、舩橋さんのチェロやクラリネット(サックス?)演奏なので、帝国エアリアルのような轟音ではない
・おおよそ90分という上演時間に必然性がある
・小説や映画に馴らされた集中のモードを棄てて
・どれだけ早く作品のスケール/フィールドを自分なりに捕まえられるかが観劇の充実度を左右するかも
・ということに30分ころ気づいた
・ダンサーひとりひとりをじっくり見ることができるシーンが多くなっているかもしれない


大橋作品を映画的として把握することはしたくないんですが、印象的、感動的な場面がなんどもあって、そのたびに、このカットなんかいも思い出すな……と思ってしまった。それから「これは、おそらく、ダンスを見ているときにしか感じられない感動ではないか」と思われる、こみあげてくる何かが、作品が終わってなお、余韻している。これを書きながらまだ感じている。残滓ではなく物質のように。でもこれが、よいダンス作品、だったからなのか、大橋可也&ダンサーズ作品に特有なのか、は、もうすこし考えて、見て行きたい。



ここからはパラレルで書き止めてってたメモをもとにしたスケッチ。


犬のような格好をしたダンサー、肉体的には男、全身が白い
犬のような格好をしたダンサーが四つんばいで引くのは、三輪車、改造されている。
それから車椅子。


帝国エアリアルでは床に散らばっていた「空き袋、空のペットボトル、ゴミ袋」というアイテムがあった。
舞台奥から転がってきたタイヤ、輪――穴


群舞ではないな、と思う
ここから、そうはなっていかないのだろう


(おおきなスクリーンの向こう側が気になるなと思う。地面から180cmくらいで止められてる。なんとも気になるポジション。スクリーンの下に矩形の枠ができる。そこに舞台の果てが覗ける。ちょうど「のぞける」位置に矩形が生じてるな、と思う。タイヤがそこから転がってきた。ダンサーも登場した。さっき、犬の格好だった)


この作品ではソロ(アティチュード?)があるんだろうか。


今見ている、これはソロか?
わからないが、こういった、ひとりにフォーカスした構成が、最近の大橋作品にあったろうか、と想起をはたらかせた。
大人数が踊る作品には、ソロ、のように見える演出は、なかったのではないか。
だとしたらそれはなぜで、今回あるのだとすれば、それはどうしてか。


ダンサーそれぞれに役がある(気がするな、と思っている)。
ここでいう「役」というのは人格ということだ。性格。性別。趣味、嗜好、人生。


うつぶせになっていたダンサーたちが起き上がって動きだした。
それまでは、うつぶせになっている、ように見えていた。
ただし、そうでなかったかもしれない。
あれは「消えている」という状態だったのかもしれない。
もしくは「ソロで踊っているように見えているダンサーが別の世界や空間に居た」のかもしれないなと思いながらフロアを眺めているとき、そういえば、このステージの広さは適切なんだろうかと思った。


大橋可也&ダンサーズの小部屋でやった作品をいくつか見てきたが。あのときに「感じられた、感じさせられた」……濃密や濃縮、凝縮や圧縮……そういった<ひとまとまりであるのだけれどそれはまとめられているだけで混ざり合ってはいないので苦しさに結びついたりする>という複数のダンサーに踊られる作品として成された強度が、吉祥寺シアターのフロアの広さに拡散されている(されてしまっている)ところがあるのではないのか?(〜45m)肉体やダンス(その動きの強弱や大小)とスペースの割合という問題。


「しょうじさせようとしているパトス/あらわしてみせようとするエートス」を算出(現出/産出)させるための『ダンス:スペース』その黄金比率という思い付きをメモしておく。


スクリーンがあることで、外にも人が生きてるってことが、ずっと気にかかてる。
ここが地獄や天国であったとして、どちらにせよ、そうであるならば、それぞれに語りつくせない物語があるということだが、語りつくせない物語やそうさせる人物と正対し、正対する時間に真っ直ぐ向き合うことは、倫理や道徳や決闘としてまっとうされれば、良いとされ、美しいとされ、強さや優しさとして納得(共感や尊敬)を得られることもあり、それはそれでよいが、そういった「強く、確かで、真っ当で、証を立てられる、説得的な時間」が、ある人物と人物(集団と集団/個人と集団etc)の関係性に生じて(生み出されて)いるのだとしても、もっというと、ドラマティックでセクシーな時間や経験が結ばれているときにも「世界」には必ず、また別の時間が何千万も何億も同時進行しているということが気になっていた。


私は唯一である。おそらく、そうだ。ただし、目の前にいる、私でない、彼ら彼女らもまた、唯一であり。
目に見えない、地上の(数名は、宇の宙の)どこかに存在する、彼ら彼女らもまた、かわらずそうだ。
かわらずそうだ、かわらずそうだ、かわらずそうだ。
繰り返してるうちに冷静になってく。
それは唱題がもたらす心理的な(肉体的な)効果がそうさせる、だけ、ではないだろう。
わたしだけ、わたしたちだけ、が生きているのではない。



みんな、この場にいるが、共感ベースでは、もちろん、ない。
お互いの存在に気づいてすら、い、ない、のかもしれ、ない。


あい、あい、あい。
ない、ない、ない。
ある、は、どこ?


舞台にスクリーンがあることで、外からの視線が気配し、わたしたちだけ、でいることが許されなくなる。
また、ステージからスクリーン内に移動したダンサーを見ていると、なぜだか、ステージで見ているときより、「よく見える」気がしているなと、いう「こと」に、気づく。今、この「こと」の中を「錯覚」にリライトしようとも思ったが、やめた。安易だなと思ったから。それをやるとは、嘘をつくことに近い。


スクリーンは仕切りとしても効果を上げているのではないか。
ステージに奥行きが出来る。
秘密の小部屋や、開かずの間、といった単語が浮かぶ。
もちろん、この舞台においてスクリーンの下は180cmくらい空いているので、向こう側は「見えている」のだが。


そういえば「見えている」っていうのはどういうことだったっけ、と思う。
スクリーンに写りこんだダンサーのほうが「よく見える」気もしている。
よく、というのは、グッドということでもあり、はっきり、ということでもあり、日常的な人間関係における接触や接近のように、ということでもあったりするから、とても似ている、ということか。とても近い。とても、とても、とても。よく見えている。もちろんスクリーンがあることで、ステージ上の「ライブ」という意味が強調される。ただし、ステージ上がライブ(生)で、スクリーン内がフェイク(虚)だという分別もまた嘘だ。こういう嘘を、ねえそれは嘘ですよね?と言っているのかもしれない。揺さぶられる。スクリーンに写っているダンサーがこっちを見ている。じっさいはカメラを見ているわけだが。カメラは「こっち」から見ることができない。「こっち」からの視象にはカメラは映っていないが、ダンサーは「カメラ」の「レンズ」が見えている。というか、ダンサーには「こっち」が見えていないんだった。スクリーンもまた、「こっち」には見えるが(スクリーンを見ているわけではなくそこに明滅する映像を見ているし、明滅する映像がスクリーンをスクリーンたらしめているというところもあるが、それは一つの要素であって、全要素ではない、原理ではない。スクリーンはそのスケールやサイズやマチエールによって、スクリーンである。こういった要素が舞台上に重要な印象をつくりだしている。作品の輪郭を「描き出して/浮かび上がらせて/なぞって」いる。もしかしたら、化粧のように、といえるかもしれないが、もうすこし考えること)ダンサーには見えない。ただ、ダンサーは、ステージ上でダンスしているとき、こっち、を見ているわけではないのだろう。見ているときがあるのかもしれないが。ダンサーは作品をやっているとき「よく見える」状態があるとしたら、その視線がとらえているものは、なんなんだろう。視線、という言葉をすぐに使ってしまうが。眼球の生理としての認識だとか着眼ではない、意識や無意識や動作する運動する肉体にリードされるような状態があるんだろう、たぶん、そうだろう。


・フラットネス
 明晰の夜2の小編でもスクリーンが使われていた。あのときカメラは、アップリンクのカフェに坐った数人のダンサーが痙攣していくプロセス(時間=肉体や関係性の変容)を接写でフォーカスしていたが、周期的にグルングルン動くカメラが静止を感じさせるとき、その画面に映っているダンサーはいつもフラットだった。喘いでいようと。汗をかいていようと。殺気や困惑や恐怖にさいなまれていようと。カメラはただ、まっすぐ、横一列のダンサーを捕らえるばかりだった。机の平面。そこに載っている皿や料理やグラスの平均。おなじく、ダンサーたちのフラットネス。今日の作品でもまた、スクリーンに投影されるのは、六人は並んで腰掛けられるサイズの椅子だ。そこに腰掛けるダンサーたちだ。みなそれぞれの顔をし、それぞれの服を着、それぞれのダンスを踊っているが<坐っている>その仕草〜静止〜諦念〜最中〜ポーズ〜のような雰囲気は、なぜか、一様に「よく見え」ている気がする。
やがて「かれらは去勢されたかのようなリサイズを施されていた」という伝承が唱えられるだろう。


・ループネス
 繰り返される動作。動作が繰り返されることによって、そこに「印象させたい何かがあること」が伝わってくる。あれがもし、反復されず、流れるような動きであれば、いまの大橋可也&ダンサーズ作品の雰囲気はないかもしれない


ムーブとポーズ=ダンス?


おれは、ダンスを見てると、どうしても全体の話になってしまう。マクロサイズ。大きい物語。大きな解釈。
それはそれで大事なことだが。(大きい、というのは、下に書く「小さい=ミクロサイズ」があるので口からこぼれるサイズ。もちろん、もっと大きい、もうちょっと小さいが大きい感じ、という見方もあるはずだ)
なら、ダンス作品に、ミクロを見るには?技術やジャンル年代記に通じていると、ダンサー個人を「見る」ことができるんだろうか。大橋可也&ダンサーズ作品の性格として、舞台上にダンサーの肖像を捕まえることが易しくない、のかもしれないが。いや、演出や創作のメソッドとしては、ダンサー個人個人とのコミュニケーションを重視していることは知っているし、見てもいるのだ。ダンスが、内面を「語る」のだとすれば、ああ、そういうケースがあるのだとして、それが「言語=日本語」としてのシナリオを身振りや踊りで観客に伝えるのなら――翻訳の重性――肉体の稼動性や表現性(それらの可能性)が、日本語の機能より乏しいと言うつもりはない。ただし、照合させようとする方向性だと、それを実現するのはとても難しいだろう。だから……と書いて、ここは大事なところなんだが、なにかに触発されて気づいたことを今日は書こう。


作品をマクロで見ているということは作品を「モード/コード」的に把握している(しようとしている)ということだ。そのサイズ/スケールで作品時間を並走している。並走じゃなく、なんとでもいえるのだが、とにかく、作品を感じる。で、作品を「モード/コード」的に消費しているというのは、なんとなく、消費かも、と思ったのでいまはそう書いておくが、いや、言い換えてみよう、作品をミクロ(たとえばダンサー一人だけに執着して作品を見たりすること)ではないマクロ的に見てるっていうのは、ダンサーをひとつの単位や記号としているってことになる。それは、そこにいるし、いることで作品を成立たせている要素なんだが、そうである、ということとしてそれ以上つぶさに見つめることはせず、単位や記号の変質や変貌や転調は「モード/コード」的に感受される。というか、大橋可也&ダンサーズ作品のばあい、「モード/コード」というより「ムード」というほうが実相に近いか。シーンにわけられているような演出/構成のスケールには、一瞬で局面が変わってしまうタイミングが頻出する。そのたびに、あのダンサーになにかが起きた、という感じはあるが、そう思ったときにはステージに有機的な変化が起きているので、一人に注目する集中をキープすることが難しく、ブレたコンセトレーションはどうしても(オレの場合は)作品のムードを捕まえなおすところから観劇を再開するしかなかった、ということ。それは、人一人の存在に向き合うことなく総体として「他者」を感じていくしかない日常生活だとか、ひとりひとりがどんな人なのかぜんぜんわかんないが同じ電車に乗ってたり一つの交差点を「大勢」として歩いてるような隣の、目の前の、誰か、によって現出する「生きてるところ」……まあ世界っていわれたりするが、そういうものが再現されてるみたいな感じが、まずある。それで、コードの話に戻るが「コード」はそれを構成している単位や記号が成立させるものだが、コードから話をはじめることができてしまうから(たとえば言葉もそうだ。未来、という言葉は、ほんとうは何を言ってるのか?ということをいい始めたがキリがないが、とりあえず、未来、という言葉があって、それは多くの日本人に通用して……というところから、コミュニケーションが始められたり、文章が書かれたりしている)なにがコードを成しているか、という観点は、あえて反省しない限り問題にされない。こういうことと、ダンサーひとりひとりを見ていないが(見ることができるだけの時間が許される作品ではないが、見ることのできる自分ではないが)作品を見ている感じがする。ミクロはなくマクロがある。あるがない。ダンサーが居ないが、ダンサーは居て、居ないという居るが、作品を「在らしめ」ている。この、ある、と、ない、と、在らしめる、の関係性がすごく「リアリティ」を伴った痛感として迫ってくる作品だなと、深遠の明晰を一度見た、いま、あらためて思う。このリアリティや現実感や現実世界の実感に、「現在的」だとか「現代的」というキーワードを接続することの妥当性については再考が要る。


あのスクリーンは、われわれの感じる「現実感」や「リアリティ」は複数のレイヤーによって構成されており、かつ、そこにはフィクショナルな一枚が挟み込まれた夢のようなミルフィーユだ、という事実を示唆するアイテムとして用いられているだけでなく、あの幕下の180cmくらいの矩形の隙がステレオタイプなコード(囲う/断つ/遮る/聳えるなど……)の風穴となっているので、そういえば、とても意味深だった。宙吊り。スクリーンと同じくらいのサイズの空隙。スクリーンには別スペースのライヴ映像が流れる……宙吊りにライヴ映像のダンサーとスクリーンと同じくらいの空隙には舞台の際が覗く……



さっき書いた「ステージの面積」のこと、よいとかわるいとかそういうことはわからないし、いつまでも、そういう話はしないと思うが、よいとかわるいとかは、どうでもいいことだ、したいことにとって、豊かな結果を生むのはどんなんだろう、ということだから。
作品が始まってから一時間とちょっと。
ステージのある区画にダンサーがあつまり、それは密集といえるくらいの接近だった。密着ではない。誰しもが孤立し、旋回し、行く先を見つけられないでいることが伝わってくるから、それは密着/接着ではないが、ステージのある区画にダンサーがあつまり、うごいていた。広い、と感じさせるステージの、ある区画、と、そこでない残りの広さ、は、このとき、なにかを強く感じさせるコントラストであり、かつ、説得的な矛盾として明るみにでた。ああ、すごくじょうずな演出だな、ここまでのダンスの時間があって、奏でることのできたモードなんだろうな、と感じた。広さは狭さとして使うことができる。狭さを広さにすることも、だからきっと、できる。それはもちろん、劇場の「外」においてだって、そうだ。


「演者/観者」というセット、という思い込み。わたしたちは、劇場に囲われ、それを、歩行者や、公演を知っているが来場していない人に、想像されたり、眺められたりするし、そのときは、ひとまとまりだ、ということ。ここにおいては、孕まれた命のようなものとしてあるが、おそらく、こういった「ひとまとまり」が、どこかにとって、なにかにとって、だれかにとって、歩行者や、公演を知っている誰か、のように、対立項(相対化を果たす構造)にあたるケースもあるだろう。それはどんなときか?そんなばしょでどのようなばあいか?


あかるくなる。スクリーンが見えなくなる。
スクリーンの白さとおなじくらいの光量に場内が染まったからだけでなく。
明るさは映像をゆるさなかったのだ。
消失……した……させた……させられた……させられてしまった……?
それぞれの主体/主犯は、だれ?どこ?どうして?


すすむ、たち、すくみ、くりかえし、くりがえって、ええ、くつがり、くわえ、とどろき、さかがえって。


ここにダンスがなかったにら
エンゲキだったらどうか?
マイム
それらについてあたらめて。


スケッチ、つづく