最後の夜にはシェリー酒を。



ペーパー企画( http://dancehardcore.com/archives/cat_dance.shtml )で鼎談させてもらった公演が近づいてきてます。

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大橋可也&ダンサーズ
『 深淵の明晰(「明晰の鎖」最終章) 』

【上演日時】
2009/9/22(火・祝)19:30
2009/9/23(水・祝)19:30
2009/9/24(木)19:30
2009/9/25(金)19:30
2009/9/26(土)17:00
※開場は開演の30分前
※9/23のみ、託児サービスあり
※9/26のみ、fooiによるライブ演奏あり

【会場】
吉祥寺シアター
JR中央線京王井の頭線吉祥寺駅北口下車 徒歩5分
東京都武蔵野市吉祥寺本町1-33-22
0422-22-0911


>>>詳細
http://dancehardcore.com/archives/000465.shtml


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最終日だけはfooi(舩橋陽+大谷能生大島輝之+一樂誉志幸)によるライブ演奏。先月、八月に行われた「明晰の夜/第二夜」を伝説のイベントに昇華させた三組のミュージシャンが生音で。第一夜も刺激がいろいろあったけれど、第二夜はホントにすごかった。



「舩橋+大谷」が鳴らした緊張感だとか一樂誉志幸の演奏がパフォーマンス性も含めてヤバイとか、大島さんのギターなんていま思い出しても鳥肌が立つなんていう詳細は、あのイベントに出かけられた人たちだけの秘密ですかなあ。一樂の……演奏してるうちに楽器が壊れてって、それにつれて出してる音が変わっちゃうなんて……。



深淵の明晰は、最終日はライブ演奏があるということだけではなくて、演出も各回によって違うみたいなので(毎日稽古しながら振り付けを変えていくからでしょうか?)見比べると更に公演が楽しめるんではないかしら。
そういえばこれはあるダンサーから教わった話ですが、彼ら彼女らは音が聞こえない状態になっているときだけではなくて、会場に後れて入ってきた人、席から立ち上がった人、なにごとかを囁きあってる人たち、外での公演ならば喧騒など……映像も音もみんな意識に飛び込んできてしまうときもあるらしいんです。そういった変化の逐一に気をとられてフリが一拍後れることは舞台上に有機的な変容をもたらすということ。「わたしたちはそうやって生きているということ?/わたしたちが生きている状態はどんなんだ?」というデッド・オア・アライブならぬ<ライバルはイヴ>という大橋可也&ダンサーズ全作品に通底しているテーマが、この「深淵の明晰」ではどのように挑まれ、また、どのように果たされるのか。



大橋可也&ダンサーズは舞踏を根幹にするコンテンポラリーダンスの「現代/現在」的な混合や拡張というより、もしかしたらパントマイムに通じる何かなんじゃないかと思うようになってきた。
ささくれが痛むのにやさぐれに心を放てないパントマイミストは倫理をもって痛苦と困惑を行き来する。
その往来が軌跡させる道をなぞり辿るうち道は未知になっていく。
この「行間/空間」の変貌は行き来のループネスによって成される。
はからずも浮かび上がってしまった「行間/空間」は、その出現の始まりにおいては「たった一人」という単位が得た自律的なそれだから、踊っている<彼ら・彼女ら>は作品が経過するにつれ、おのずと孤立めいていく。ところがそれはよくよく考えてみればやはり「孤立」ではなく「孤立めいている」状態であるいというポイントは押えたほうがよいかもしれないが、大橋可也&ダンサーズの作品にしつらえられる舞台音楽は、キャラクターの心理を聞かせるために鳴らされるのではないから、どうしたって「キャラクターの心理」ではないところで流れる。ダンサーの立つ場所に弾かれる。ダンサーのいないところに流れ込んでいく。ここにおいてダンサーは川を割る石のようなものである。音は川の水のようなものである。音が川の石を鳴らしているのであれば、おそらく「わたし」は川の水のようなものになれたのだ。ところが、音は川の水であり、ダンサーは川の石なので、そうなると「わたし」はどこにいればいいのかということになる。ダンサーにシンクロするか。だが台詞が導いてくれるのではないので、ダンサーの体ははっきり見えるとしても、そのキャラクターに近づくのはなかなか難しい。であるならダンサーの動きをトリガーに妄想を撃っていくか。穴が空けられればもうすこし息の自在が叶うかもしれないのだ、という連想をもたらしたものは呼吸困難だった。気づけば溺れていのだった。「わたし」を運ぶ川の水は石に割られる。川の水はそのとき音だった。「わたし」を運ぶ音があった。ところがそこは天井の薄明かりだけが頼りの暗がりだったから見通しが立てられず、なので水が割られるたび「わたし」は石に当たる。ダンサーは右手を大きく挙げた。そのままでポーズを固め、一秒、二秒、三秒後にはげしく旋回する。右手は左を過ぎまた右を通過し左を越えて右を揺さぶる。流される音は「わたし」を運びながら石に割られ「わたし」の額は四秒分の切り傷にひらかれる。流れた血をぬぐうことが許されないのは音に流されてしまうからだった。

帝国エアリアルから九ヶ月。
終わりはない。ない終わりなら終わりでない。なら終わりってなんなんラララ。
そういえばコンテンポラリーという言葉はブラックホールなのでそもそも何も言ってない。
サウンドがもちいられるパントマイムの作品っていうのもあるんだろうか。
心の声にみみを傾ける準備がありますか。
はじめはそうだった。
心に傾けていたはずだった。
ところが、どうしてか、しまった。
いまでは身体が傾いてしまっている。
しまっていたはずなのになあ。
見つかったっていうかアレは暴かれるように、だったという。
けど、それ言うわけにいかない。
言ったらイってしまうから。
イったら言われちゃうから。
それ言うわけにいかない。
ダンサーだから、パントマイミストだから、ミュージシャンだから。
だったら、そうでなかったとしたら、どうだったかしら。
いいえ、そちらにいくのではなくって、わたし、ダンスという言葉を知ってた。
世界にはダンスという言葉があったんだった。
そうだ。だから、それでいいのじゃないかしら。
たとえば現代版のフランケンシュタインをやるならマッドサイエンティストに造られる「怪物」は、つぎはぎだらけの怪異としてではなく、その容姿が端整だろうと平凡だろうと、心の成り立ちだとか生きてきた時間の亀裂性や分裂性みたいなところを描かれるだろう。
マイムを生んだの誰。
誰と誰とのアイダにどこで生まれたのあんた。
街で一番の美女は尻軽を笑われるばかりだった。
アイダったのに?ああ、いいのだ。愛だなんていうのはダダみたいなもんだからなの。
けどたぶん、あの子、さいしょはちょっと喉が渇いてただけだった。
それでカウンターに腰掛ける。ささめきの唇にみみを寄せる。
よして、そんなふうふうふうて舐めたりせずいつまでも離れないでいて?
くすくすってやがて斜めの小首。
ところが、それだのに世界は水平を保った。
だなんて、ふふ、ばかみたいだ。
イわれるとアタシなんかグらぐらンなっちゃうばっかりでね。



F/Tのプレトークにいってパンフレットをもらったら、ウチの近所でやる公演のおおさに驚いた。客を改造バスに乗せ、車窓に流れる景観を背景に演劇を企ててしまうセンス、ロンドンの株式市場をライブで使用してしまう、しかも当日のチケット代金を投資するのでもし上がりが出れば観客に分配するというセンス、演劇ってすごいな。たまたま二組は海外のアーティストだった。それで海外の批評が気になった。それから、海外の批評、という言い方がイやだなと思った。イやなんだが、現状、そういわざるをえないような状況がある。それは、おれのせいであり、おれのせいでない。中とか内とか外とかいう、そういうことを、意識しているとしていないとでは大違いだが、その発言はかなしいかな日本語であり、日本語を理解する人しか意味がわからないということも困った話だ。外野とか内野とか言えるのはそこにルールがあるからなんだ。横浜の工藤がいよいよ首になってしまうというニュースにベイ・ファンのあの人はなにを思うか。



佐々木×松井×相馬のF/T秋のプレトークを聴いてたらどれも見たくなってしまって困った。松井さんがアムロ・レイとおんなじ声だったので、佐々木さんから質問が飛ぶたびに、いつ彼が「とうさんにだって……」という台詞を口にするかひやひやしていたらいつの間にか彼はドクターになって包帯グルグルの犬を元気づけていらっしゃった。
「交錯するサーチライトが浮かび上がらせる脱獄囚のようなものとして<リアル>を肯定する。言い換えると、人の数だけ物語があるということ。私はそれを絶望ではなく希望としてコメディをやるのです」
いいや、そのような聞こえなかった台詞、そしてよく喋る秋田犬。
あなたを巡る冒険が暴走したとき、それでどのように息の根をとめるか。
はたまた裸の白を仕留めるか。