どこまで飛べるかじゃなく、ある到達や達成から、どこへ降りるかを考えないと、生き抜けないのか。







彼は書く。
「日記の書き方を変えて一週間くらい経った。キーワード、技法、工夫など楽しめるようにやっていけたらと思う。きつくなったら無意味だから。すでに、はまりすぎて原稿のほうに時間がまわらなくなっている。気をつけること。本末転倒を体で覚える時期は、もう終わらせたい」
彼は書き抜きを辿る。
「まず技術を身につけ、それから見ることにしようなどと考える人は、出来合いの技術しか得られない。( 中略 )
技術は特別な目的のために考案すべきものである。同じ技術は二度と使えない。( 中略 )決まりきったマンネリなどありえない」
「自分の正直な感情を大切にし、見過ごさないこと」
彼が書きつけたのは絵描きの声だ。
勇敢で、しなかやかで、誰よりも辛い寂しさに負けなかった男の声だ。
彼は書き継ぐ。
「キーワードに引きずられてはだめだ。それは試み以上のものにはならない。内容に要請されたり、引き出される形でないアイデアは、どれもこれも飾りでしかない。着飾るな。衒うな。プレーンに、ストレートに、汚れや崩れがあるのなら、それらそのままをピュアに。言葉の意味、モデルの光、モチーフの熱……あるがままを書き出すこと」








彼は続ける。
「1/10。FIFAが主催する女子最優秀選手賞に、日本代表の澤さんが選ばれた。去年のワールドカップ、なでしこの戦い方は信じられないプレーや逆転劇の連続だった。いま思い出しても熱くなる。おめでとう!


こんな記事をみつけた。


……つまり、アテネ五輪当時は、ほぼ澤1人が世界水準だったものだが、昨年のW杯を戦ったチームには、世界的なプレーヤーにまで成長した選手が要所にそろっていた。阪口夢穂の展開力、安藤梢のキープ力、岩清水梓のクレバーな守備、宮間あやの正確なキック。それらが、澤自身に本来備わっていた、たぐいまれな感覚を大いに引き出した……(Texted By 江橋よしのり)
(記事URL http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/japan/2011/text/201201100001-spnavi.html


メンバーの成長については印象の言及だけじゃない、科学的な証明が欲しいところだけど、これは大事な指摘だと思う。ほかの記事で読んだことがない。勉強になりました」








社会の、いや、この世界の、もっとも低いところにいなければ、自分を許せなかったヴェーユ。
身分を隠し、貧しい人たちと一緒に農場や工場で働きながら、彼女は思索をやめなかった。


―― 対象なしに欲求すること
だれかを失った場合、われわれはその亡き人、いなくなった人が実体のない想像上の存在になってしまったことを悲しむ。しかしわれわれがその存在をなつかしむ気持ちは架空のものではない。自分自身の奥底まで降りて行こう。そこには架空のものでない欲求が在る。われわれは空腹のとき、さまざまな食物を想像する。しかし空腹そのものは実在する。この空腹を捕らえなければならない。亡き人の現存は想像上のものだが、その不在はまさしく現実である。その人が死んでからは、不在がその人のあらわれかたになる。





エスを愛し、神を信じながら、教会を批判し、洗礼を拒んだヴェーユ。
その言葉、その生き様、痛みを感じさせるほどの、その存在の白衣性。
やがて吐血に染まる、清廉と潔白。










彼は言った。
「四年半前、どうにもできずにどろどろしていた。あのどろどろ、おれはどう扱い、なにをどうして、どのように吐き出せばいいか、全くわからなかった」
「そうか。誰もそばにいなかったのか」と、男は言った。
「誰も? 誰、なんて言葉は知らなかった。いまは、やっと『ああ、それが、あれで、あれはこれだから、そうか、それなら、これをやればいいのか』ということが見えて『さて。じゃあ、どう吐き出そう』に変わったところだ」
男は彼から視線を外すことなく、小さく頷く。
彼の声は、誰に聞かせるでもない口調に聞こえる。
「吐き出す、そのとき、吐き出す質がある。技術がある。調子や姿勢、その流れや速さにも、勘をつける必要がある。ただ吐き出せばいいってわけじゃないんだ。こんな話、ばかみたいだろうが、でも、考えるしかなかったし、考えるだけの時間もあった。だから、やった」
「気づいたら、ここにいたんだろう。君は、それまで、誰にも会わず」
彼は、男の投げかけに答えず、暗がりを睨んでいる。
「おそらく、君は」と、男は言った。
「君は、また変わる。変わりながら、少しづつ、君の言葉を見つけていく」
「………………」
「ここに来るまでの君は、君の中にあるどろどろしたもののほうが、君の体や、君の心より、自身として感じられていたんじゃないか? 君は、どろどろしていたものに、あたりをつけられるようになった。さらに、吐き出すどろどろしたものを、ただ、どろどろしたもの、としてひとくくりにするのではなくて、どろどろに調子や模様、硬軟だとか濃淡を見つけた。ここからさらに、君自身のどろどろを超えた、どろどろの広がり、どろどろがどこまで通じ、どこへ流れ、どこに辿りつこうとしているか……その軌跡を眺める眼差しも、君は身に付けるはずだ。ただ、どろどろしたものにひきつけられ、憎しみ、憎しみに呼ばれる串刺しの、縦の、縦の視線だけではなく、どろどろしたものに伴うような、添うような、さらにはその先までを見通すような、横の、横の視覚を覚えるはずだ」









男が彼の肩に触れる。苛立ちでも、誇りでも、恐れでもないものに、彼は身をよじる。
「君は、今まで知らずにいたのだとしたら、いま覚えたらいい。君が苦しんでいるのは『喉が渇いている』という状態なんだ」と、男は言った。
彼は困惑している。
「乾き。喉の渇き。からからしていて、くるしい。あたまも、ぼんやりする」
「喉が渇いたら、水を飲むんだ」と、男は言った。
「水?」
「そう、水だ。喉が渇いたら、水を探すんだ。そして飲めばいい。飲み方はわかるね?」
男は左手を喉にあて、ごろごろした丸いところを摩りながら、
「そう、嚥下する。飲み下すんだ」と言った。
彼は男を見る。初めて人を見るような目つきで、男の喉を見つめる。
「これを使うといい」
鉄、いや、銅だろうか。
男が手提げから筒のようなものを取り出した。
暗くてよく見えない。
「これは水筒という道具だ。ここが、この蓋が……取り外せるようになっていて、ほら、逆さにすると器にかわる。ここ、見えるね? ここに水を汲んでおけば、しばらくのあいだ、渇きには困らない」
男は蓋を開けた水筒を蛇口の下に運ぶ。
「こうやって使うんだ」
彼は動かない。
腰まわりに太い紐のようなものが巻かれていて、この巻物にはふさふさした起毛だ。
「筒を壊さないかぎり、水は漏れないから、持ち運びも簡単だ。これ一本分がちょうど一日分だ。三日も四日も、入れっぱなしにしてはいけないよ。腐ってしまうから」
「腐るって、なんだ。知らない」
彼は足を動かさずに体だけを前に倒し、男が差し出した水筒の中を覗き込んでいる。
檻は暗い。男の手元も、まるで過去のように薄暗い。
「腐るとは……んん、そうだな」と言いながら男は窓際に立つ。
窓掛けの裾を掴むと、わずかに持ち上げる。
「ひとつには、臭いが、臭いが型を放れ、放れたところから崩しにかかること」
石床に寂光が湧く。宙にある埃が細かにきらつく。
「それから……時の進みが変わるということ」










彼は男の右手にある水筒を見ている。
男が手にする水筒が、いまにも動き出すのではないか、と案じているような眼差しだ。
男は振り返ると彼に近づき、水筒を渡す。
「水はね、できれば、乾く前に飲むんだ。喉が乾くというのは、体から水分が失われている合図だけれど、そのときには、かなりの水分が体から失われている。体にとっては、あまりよいことではない。だから、癖をつけるといい。喉が渇くまえに水を飲む癖をね。まあ、しばらくやっていれば、慣れてくるさ」
彼は男が差し出した水筒を受け取ろうとしない。
熱いのか、冷たいのか、それとも……と、戸惑っているように見える。








男は彼を見つめている。
「君は今日、ここから出て行く。これから暮らすところの傍に、どこに水飲み場があるか、水を汲める場所があるか。君の仕事は、それを探すこと、見つけることだ。できるだけ早く見つけること。食べられないより、飲めないほうが危険だからね。川、泉、井戸、蛇口、噴水……どこでもいい。君にぴったりの水場を求めること。ただ、どんな水でもよいわけではない。水は、清くなければいけない。また、これだけは肝に銘じてほしい。汚れた水には決して口をつけないこと。それから、どれだけ喉が渇いていても、海の、塩の水を飲まないようにね。塩水は渇きを強くするだけなんだ。それと、同じ液体だからといって酒や酢はだめだ。わかるかな? 酒や酢は知っているかい」
「知らない」と彼は言って、おそるおそる水筒に手を当て、一度すぐに離す。手のひらを確かめる。唾を飲み込む。
「そうか。それなら、まず匂ってみることだ。液体に匂いがあったら、注意すること。果実の汁のように、なかには君の渇きを癒してくれるものもあるが、その話はまたの機会にしよう」
彼は手にした水筒を逆さにする。水がこぼれて彼の裸足がびしゃびしゃになる。水溜りに、小さなひらひらしたものが浮く。しかし、明かりが足らないので、水に浮いたものが何なのか、いつまでもわからない。











彼は床に着き、一日を省みる。
男から受け取った水筒が、窓際の机に立っている。
暗がりにあって、それは人でない、なにかの額から伸びる角のようだ。
彼は、眠る前に、今日の自分を“完全”に許そうと思い、目を閉じる。
『完全な許し』
それは彼にしてみれば、祈りを捧げるように“あらゆるもの”と繋がっている状態を想像し、心を海にすること。とけていく氷のような「私」を感じ、流れそのものになること。そして、流れていったところで、あらゆるものと混ざり合うことだった。











―― きみにすべてを

   「わかるだろう、言わせるなよ」と突き放すのは
   「わからないわ」と言って欲しいからだと
    ほんとうは おまえ 気づいていたんだろ