無効へ。



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■0114(SAT)
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正午に目覚めた貴方の喉はひりついています。カーテンが日差しを遮る六畳の和室は薄暗く、空気も乾いていて、気だるさはどうにも拭えない。かたちの崩れた掛け布団から膝が抜けているでしょう。冷えたところをさすりながら、貴方は、
「今日は鳥の声がしないな」
と思うのです。
日によっては鉄柵の縁に鳥の影が見えるほど、最上階のベランダ見晴らしが、しかし貴方にはときにうっとおしい。貴方は、
「あの鳥の名は知らない」と思うのですね。
「声には聞き覚えがあるが、それも空耳とそう違わない」




貴方はぐったりした身体を引きずるように布団から出ると、冷たくなった湯たんぽの水を加湿器に流し込みながら、うんざりするはずです。
「いつかこぼすんだろうな、眠気に滑るように手元が狂って、それで絨毯がびしょびしょになる日が来るんじゃないか」
貴方もご自覚があるように、その惨事ときに吐き捨てる悪態 せりふは練りあがっているのですよね。
「口にしたくもないが、実はもう何度も口にしている。ネガティブな未来を呼び込むんだ、こういうシミュレートが。なんと言うんだったっけ……こういう脈絡、呼び込んでしまう流れを一言で言う……カタカナだったか漢字だったか……名前があったはず……」と貴方は思いますが、寝起きだからか、それともはじめからそんな言葉はなかったのか、どうにも思い出すことができず、貴方は思い付きを振り払うようにかぶりを二三度まわして、リビングに向かいます。
ベランダにも、どこにも、まだ鳥の声がしません。
晴れているらしいが、空に広がる雲が厚いのかどうかも、わかりません。





貴方は何年かぶりに履歴書を書くでしょう。
「むかし書いたときは、四枚も五枚もしくじって……あらためてコンビニに買いに行かなきゃならなかった。雨の日で、寒くって、最低な気分だった。誰を呪ったらいいのか? 悔しくて腹立たしくて、許されるものなら……とても書けないことを考えて考えて、目なんか血走っていたっけ」
それから「でも、今日は調子がいいな」と思うのです。
「いや、調子のよさに気を取られたりしたら手元が狂うんだ。冗談じゃない、もう少しで書きあがる。邪魔するなよ、お前ら、という言葉すら飲み込んで、おれは次の一字一句に集中するだけだ」
煩わしく思っていた作文も、ワンアイデアに恵まれてさくさくと仕上がります。懸案だった写真もきちんと用意できるはずですし、履歴書に向かうペンの走りも悪くなく、プロフィールとPRまで一気に終わるでしょう。
「あ、職歴を書いていなかった」
そう気づいた貴方は、すぐに取り掛かります。細かなレイアウトが気になる貴方のことですから、おそらく別紙につけておいたサンプルを確かめながら、行を一段下げて書き始めるはずです。履歴の空白のところ、その一番上に『職歴』と記し、その左に年月を、就職した年月としつきを左のスペースに……書いてしまいますね。そして貴方は唖然とする。貴方の全身の毛穴が音を立てて一気に開き、ありとあらゆる魍魎どもが、絶望を背負って、そこからキキキキキキと流れ込んでくる。貴方は震えるでしょう。恐れ、戸惑い、そして殺意に震えるでしょう。貴方が年月を書き記したその空白は、本来開けるべき一マスですよね。キャリアは一段下から書かれるべきでした。平成の「平」を書き終わらないところで、貴方の手は止まるでしょう。それから数秒、いや、気が遠くなるほどの数分 ―― 貴方は身動きが取れなくなります。息苦しいまでの憎しみです。行き場のないやるせなさです。果てしない喪失感です。すべてが混ざり合った爆発的な殺意です。





コロスって、誰を?
誰お、コロスって?
コロス、それ、誰ヲ?







21時頃、TS館から戻る貴方は、寒空の下で自転車を漕いでいるはずです。
そして、こんなことを考えるでしょう。
ビアスにポー……そうか、江戸川乱歩って翻訳もやってたのか……懐かしい、乱歩。むかし読んだときと、やっぱり印象が違うものだな。人でなしの恋、女の一人称も読ませるじゃないか。こないだ太宰治の女生徒を読んだばかりだから、照らし合わせられて面白いんだよな。乱歩のフェティシズム……フェティシズム、なるべく使いたくない単語。それだけで、なにか言った気になる、ずるい言葉のようで、苦手だけれど、人形や暗がり、秘密、梯子、屋根裏、埃、化粧箱、嘘、裏切り、血、たゆたい、古さ、時間……それらへの偏愛、執着……あとは乱歩のモデルとモチーフの取り方だな、これは勉強になります。ベルメールパゾリーニに隣り合わせてみたくなる「ブツ/輪郭/継承/肖像/非人間……」への偏愛(いや、ひょっとしたら純愛か?)と、彼が読ませるピュアネスの濃度が感じさせる眩暈するほどの官能性・変態性……江戸川乱歩が書いていた……このくらいの時代までは文学者は外国語に堪能だったかもしれない……英語、仏語、独語、中国語……それぞれの素養が混ざり合った深みのある文章。そういえば「残念だけど、制度も時代もなにもかも違いすぎて、あの人たちの教養にはとても叶わない。外国語だけじゃない。留学、家庭環境、学校教育、宗教……あらゆる文化のクオリティが段違い。でも、あの頃になく、いまに在るものがある。それが音楽と映画だ。だからオレは書き物をしながら、音と映像についての批評をはじめた」と話してくれた俊才がいたな……音と映像、文学の歴史と膨大な量の作品群……すべてがヒント……おれにとってみれば、あとはスポーツか……フットボールのこと……踊り、演劇、詩に芸術……すべてがヒント……乱歩が生きてた頃はまだ、海外文学の研究と吸収が日本文学を作る時期だったのか。明治初期に興った翻訳〜日本文学の生成……明治・大正・昭和の文豪たちが編み、それに加え新聞紙上で連載されていた講談をはじめとした『喋り言葉の文学』が混ざり合って、夏目漱石が圧倒的な現代性に調和させる口語体(非漢語体)……苦しく、悩ましく、卑屈になりがちで薄暗い……しかし遣り甲斐そのもののような時間の連続……日本文学の青春時代……芥川龍之介『藪の中』のプロットはビアスの短編にインスピレーションを得たらしい。知らなかった。こないだ蛇の小説を書いたばかりだったから、ビアスの短編に出てきた蛇のことは気になった。そうか、ラストはああいうオチをつけたのかビアスさんは……芥川龍之介の『藪の中』だけ読んでも、ビアスに影響を受けていたってことはわからないし、あの小説には自律した面白さがあるし……なにがきっかけで、なにがオリジンで、なにが目的だったのか……でもそういうことは、忘れられてもいいことだろう。書き手としては、わかってもらえたらラッキーくらいで、別に気にはしてないと思う。それはアイデア、執筆、疾走のトリガーのようなもの。心ある書き手なら、常に誰かへのオマージュやリスペクトの気持ちは失われない。そして、またそれが伝わるはずだ。一方で、小説に込められた思いや技法、アイデアについて「忘れてはもったいないこと。覚えていると、さらに楽しくなること。知っていれば、より楽しめるようになること……」も、またあるだろう。そういえば黒澤明羅生門も最高だよな。ミフネの獣性、京マチ子の歯黒、汚れた単、しなだれた姿態と擦れた流し目 ―― 猥雑な平安エロス……欲情に火をつけるに、化粧も香水も思わせぶりなセリフもいらないんだ、ただ膝を崩すだけ、たったそれだけで、なにもかも投げ捨てさせる欲情に火をつけられる、そんな魔性がいるのかもしれないと想像すると、たまらない気持ちになるよな」





どうする?
そんなときが来たら、おまえ、ぜんぶ棄てるか、薪にするか。
……するだろうな、考えもせず、性懲りもなく。




部屋に着き、晩御飯の支度をはじめ、思いのほか美味だった鯖の照り焼きを味わった貴方は、棚の上の本の並びから『私の小説作法/丹羽文雄』を抜き取るでしょう。
「テーマにこだわりすぎるな。分不相応なテーマは扱うな。無理したらつまらなくなる。崇高な概念を追おうとして追いつけないぶざまさはよくない。ありふれたテーマでいい。テーマがありふれているとか斬新だとかはどうでもいい。そのとき描こうとしているヴィジョンが、テーマ(著想)なのかモチーフ(動機)なのかくらいは考えておいたほうがいい。テーマとモチーフがごっちゃになっていて、それを人に説明しようとしたとき、ダラダラ話さなければならないのは、テーマもモチーフも捉え切れていない証拠だから、もっともっとメモを取るなり思索するなりしないと駄目」
一句一句が警句に聴こえ、一文一文が注釈をくれる、と貴方は感じ入るでしょう。
また、こんな一文に目が止まるでしょう。
「物語というものは小説にとっては、小説以前のものであると思ってもらいたい。いわば十分にみがきのかかっていない小説の原型である。原鉱にすぎないものだと納得してもらった方がよろしい。ところが世間には、この物語性の小説がいまもなお強力に横行している。何故横行するのか。それには、読者が理智をはたらかす必要もなく、記憶力にたよる必要もないからである。理智と記憶力を必要とするのは、なにも作家の側だけではない」(91p/後半部)
貴方は、さらに遡って読み直すでしょう。
「しかし、こうしたことを私は臆面もなく責めるわけにいかない。この私自身が初めの間は、曖昧な認識しかなかったからだ。幸いに私の小説意識が、物語性小説に次第に飽いてきて、不満をおぼえるようになり、近代性に気がついた。(略)いつか彼らの目も、小説の近代性に気がついてくれるであろう」(91p/前半部)




ここで、貴方は二つのことを考えるはずです。
一つは、頭ごなしに言い切ったり押し付けることなく、自らの反省も吐露する丹羽さんのお人柄、小説家としての態度について。
二つ目は、ここで丹羽さんが書かれている「物語(いわゆる「筋」のことだと思われる)」から離れたところで小説を読む(書く)人と、そこから離れられない(離れるという発想がない)人とがいるというのは、更新と停滞、新品と遺物、工夫と惰性のような対立を象徴している関係性ではなくて、もっと別のなにかではないか、という思いつきです。
続けて貴方は思い出します。
谷崎潤一郎芥川龍之介の「小説に物語が必要かどうか」の論争があったのは1927年、或る友人に「僕は君がなにを書いているのかわからないんだ。あれは夜の話なのか? 夜だから判然としない描写や綴りを使うって、それが小説と呼べるのか……僕には君が理解できないし、どうしても興味が持てないんだ」というような指摘を受けたといわれるジェイムズ・ジョイスが『フィネガンズ・ウェイク』を書き上げたのが1939年、そして丹羽さんがこの本を上梓したのが1984年(文学界での連載はいつだったかわからないが) ―― 人を変え、場を違え、えんえんと繰り返されてきた話だ、と貴方は思うでしょう。解決、解消のない話……というよりも、だから「知っている/知らない」、「分かってる/分かってない」、「理解/不理解」……そのような受容の問題とは違うところにあるんじゃないか。なにかもっと、根源的で、根本的で、原理的な解釈の……受け取りの……まったく別のところにごろ、ごろ、と転がっている岩と岩のような何か……少なくとも、乗り越えたり繋げたり、とけあったりわかりあったりできるような、するような、されるような話ではないんじゃないか……と、貴方は考えるでしょう。
「でも、今日は眠い。もう、ずいぶんと眠い」





【BOOK】エルンスト/イアン・ターピン 新関公子・訳

無関係のもの同士を結びつけるために、母体として夢をつかうエルンストのやり方には、多くの先例がある。それらのなかでも一番重要なのは、イタリア人ジョルジオ・デ・キリコの“形而上学(メタフィジック)”絵画であった。 ( 中略 ) キリコによるこれらの絵のなかには、衝突する矛盾した遠近法、平らなものと立体的な肉づけのあるものとの両立し得ない形、奇妙な照明、無関係なもの同士の並置など、変化に富んだ結合がたくさんある。そしてそれらは一体となって、説得力の夢のような効果をあげているのである。  8


1930年代を通じて、シュルレアリストの美術のなかで彫刻的表現が重要性を増してきたことは、彼らの関心が立体的なオブジェに向かっていることと対応している。アンドレ・ブルトンが、夢からの不条理なオブジェの製作を呼びかけた後、シュルレアリスムのオブジェは、秘められた欲望の具体的な物質化として、グループ内で重要性を増していた。 24


いつか、自然が文明をのみ込むであろうというシュルレアリストの期待や、機関車が森によって覆い隠されるというブルトンのイメージ  102


コロラドゥ/エルンスト>
お前の臭気を前にしておれたちは茫然自失した
その悪辣な瀝青色(ピチューム)の
その石灰分を含んだチョコレート色の
その残酷な緑色の
メドゥーサの濡れ髪の血統をひく
コロラド河よ
メドゥーサのコロラドゥよ


コロラド
コロラド河+いかだ+水 colorado+redeau+eau=coloradeau)





この夜、貴方は夢を見ません。
ひとつ、神の鼓が木霊する坂にむけて長い手紙を書いて、そこで現《うつつ》から放たれたのだから、この夜、夢は貴方に嫉妬して、星と不倫をいたすのです。