一週間の日記を点検する。




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■ 2012_01/15(SUN)
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君は、特に筋肉痛もなく、昼ごろに目覚め、前夜に箇条書きにしてあったメモを思い出したので一度手にとって確かめて、その流れの通りに朝のルーティンをこなした。


君は、今日こそは何か書かなければ……と思っていたのだよな。前日の、あのうなだれてなければいられない体の具合から、いくらかは回復していた君は、そうだ、だから「なにか書こう」と思える、この日、この朝、朝というかもう午後だったはずだが、なんにせよ、君はそう思えるくらいの調子にはあった。





メーラーに「日記の読み返し」というリマインダーが届いていた。
君は、それが腹ごなしと頭の体操にちょうどいいと思い、先週の日曜から順に読んで行った。
キーワードを書き出し、それぞれの日付にちょっとした反省点を浮かべながら、今日から一週間の日記について考えた。


抜き取ったワードはこのような並びになったはずだ。


日 無意味のブロック
月 詩を引用
火 冷たさから暖かさへ
水 三人称
木 AはBをして、CになったDに、Eだ
金 二人称
土 手紙で



それぞれの反省点を、少し書いておこうと思っただろう? 無意味についてからだ。


 ●無意味のブロック
 君は、手元にあったTVのリモコンを書いてみたところ、その形状について、わかりやすく、それでいて簡潔に説明することが難しい、という疲労感があった。
 どうして無意味のブロックが必要だと思ったのか。
 ひとつには、あだち充が話していたことだよな。
 「なんてことはない陽射しだとか、太陽、空や人のいない道路……そういう1コマが大事なんです。直接意味にはならなくても、そういう場面を発想できるか、流れの中に差し込めるか……」
 もちろん、君の脳裏にはゴダールの映画も浮かんでいた。
 書きながら、これらは無意味というよりは、直接性の回避や迂回、性急な書き心に対する戒めや工夫と言った方が適切かもしれないと、君は思った。さらには、突き進むだけでは底の浅いものになりがちで、ふくらみや奥行きをもたらすのは、直截な物言いや描写ではないということに気づけるかどうかなんだ、と考えを改めていった。
 もう一つには、やはり無意味と無駄とは全く別物だ、という点だ。



 ●詩を引用
 「なにか詩を」と求められたとき、谷川俊太郎マラルメリルケだとか松本圭二を思い出してもよかっただろうに、君はシンボルスカを引いた。そこで、彼女の詩だったのはどうしてだったのか、とは考えず、もう何度目だろうな、彼女の言葉を読むのは。
 君は考えた。波にも、林の深淵にも、つまりはあらゆる存在に対して肯定を差し出す、形状や温度に対する不信も期待もなしに、一切の審判《ジャッジメント》を放棄し、すべてを受けとめる覚悟を述べたあとに、「しかし、どうにも受け入れられないのは、あらゆるものの変化の傍にあって、その渦中にあって、また同じように蠢き轟き、移ろった果てにふたたびここへ戻ってくる(来てしまう)“私”の存在だけは、どうにも認めることができない」という吐露に、君は戸惑った。どう解釈すればいいのか、どのように聞いたらよいかわからずに、困惑した。その不穏な漣は、いまも止んでいない。



 ●冷たさから暖かさへ
 「そのものを描き出したければ、形や色に目を留めるのではなくて、目には見えず、心をふるって感じ取らなければ察せないような、そういう“何か”への注目が必要だ。たとえば、それは空間に漂っている光のようなもの……いうなれば“冷たさから暖かさ”へのイマジネーションだ」と君に教えたのはヘンライだった。
 この日、君は起き抜けの調子をスケッチした。目覚め、その日の具合に寄り添っていく心の状態を、冷たくなった膝と、少しづつ温まっていく体に譬えた。どこか遠くにある崇高なものを借りてくるのではなく、もっとも身近にある君自身の体に着目した点は悪くなかった、と言えるだろう。捉え方と発展の仕方(現実に生じる感覚や状態に留まる必要はなかったかもしれない)は、これからに期待しよう。
 君の冒険は始まったばかりだ。



 ●三人称
 試みを続ける場としての日記だからと言って、自分の話をそのまま書き出すことに躊躇いや照れくささ……もっと言えば「らしくないことをしている」という違和感が、君の心には疼いていた。
 ここで三人称を試した。文体、書き手の意識(性別・年齢・心理)、リズムやバランスはこれからの課題だが……君はひとつ「見つけた……」と思った。今までにない書き心地だったからだろう? 
 これまでは、書いている内に対象と近くなりすぎて、全体のバランスを欠いてしまう傾向にあったのが君の書き物だが(それは一概に欠点・悪癖とは言えないが)、この人称の調整や工夫が、これからの書き物にヒント(一定のポジション・コンセトレーションのキープ)をくれると気づいたんだよな、君は。
 この発見/発明の余韻は、今日まで続いているし、いま書いているものにも影響しそうだと、君は嬉しく思っている。日記のあらたな試みが、はやくも大事なきっかけをくれた、というわけだよな。



 ●AはBをして、CになったDに、Eだ
 ここで君がやったのは、一文を分解したとき、主語・動詞・述語・形容詞・副詞……のように確かめられるヴァースがあるとしたら、そのヴァース一つ一つにしても、書き込んだり書き加えたりできるのではないか、というアイデアのスケッチだった。
 たとえば「僕は昨日の夜、犬と散歩した」という一文を「不眠症の僕は、長い電話をすることになる昨日の夜、毛と鼻が短い小型犬と、家の近所をぐるっと散歩した」のように膨らませることができるのだが、それをさらに膨らませていったとき、どれくらいが限度なのか、限度は無いのか、という検証がしたかったんだな、君は。 やってみて君は、膨らませていく方向性は、あまりに実験的過ぎて、ある程度の伝達を期待した書き物には相応しくない、と思った。主語や動詞を「、」で区切ると無理感が出てくるし、さらには主語のなか、動詞のなか、形容詞のなかで、使えない繋ぎや言葉(たとえば疑問形など)があり、その不自由さがかえってエネルギーを一点に集中させてくれるかといえばそうでもなく、かなり無茶な試みだなと、途中で気づいたはずだ。
 ただ、これをやってみたことによって、センテンスの長さについては、思うところがあったんだな。
 短文だとリズムは出るものの迷いや逡巡の気配が失われ、一方長文になればなるほど、ある種の回りくどさやイメージだとかヴィジョンの滲みが生まれる。もちろん、それぞれにポジティブな点も具わっている。
 描こうとする対象にとって、どのような文体がふさわしいのかは考えどころだし、一文を短くするにしろ、長めに綴るにしろ、その長短をどのような切り口からはじめたらいいかの勘をつけられたことは、君にとって拾い物だった。
 こういった観点をもって、古典や名作を読み返すと、さらなる発見があるだろう、と君は楽しみな気持ちだ。ひとつには、 谷崎潤一郎は、吉田健一は、どうして文章から「、」を無くしたか。



 ●二人称
 君に大きな変化をもたらした「三人称」の記述に続いて、ここでは「二人称」が試みられた。
 二人称と三人称、どちらも一人称で描いたときに陥りがちな執着や視野の狭さから距離を作ってくれるが、モデルやモチーフとの関係性に大きな違いがあることに、君は気づいたんだな。二人称は、やはりかなりの「親しさ」や「寄り添い」、ある程度の時間を共にした(少なくとも、呼びかけている人間には、そういった親密さや共感、想起される思い出のいくつかがある)「関係性」が前置きされる。
 一読すると、二人称が帯びる呼びかけのニュアンスが、一人称の語りよりも主体への惑溺を回避してくれるように思えるが、つねに語る対象が前方にあるが故に、かえってナルシシズムを呼び起こす危険性がある書き方かもしれないと、君は注意した。それはいわゆる「投影」のことだな。語りかけるのが実在の人物……友人や恋人であるとしても、想像や妄想のなかで捏造されたキャラクターであることを本人が自覚していないケース……思い込みというメカニズムが本人の願望や期待……偏愛や錯覚の交ざりあった一方的な把握でしかない……そういう意味での「捏造」がおきがちだ、ということだよな、君がいま考えているのは。それから、いままでうんざりさせられた押し付けがましい共感や理解の言葉を思い出しそうになって、あわてて蓋をしている、というところだろうか。そして、君はいま、二人称の、このような危険性をひとつのテーマとして利用するアイデア……すこしづつ狂っていく……じつははじめから狂っていた……そんなことを考えている。
 二人称はナルシシズムに注意を払えば、一定の距離感を持って対象を書き起こせる手法としても使えるし、実は今まで君が書いてきた作文のかなりの部分は(とくに人物の語りのところは)、一人称ではなく二人称だったのかもしれないということに、君自身、驚いたのだろう?
 なにせ、仮にそうであったとしても、それは無意識だったのだものな。どれもこれも、意図した二人称ではなかった。聞こえたものを、木霊する声を、ひたすら追いかけるように書き取ってきた……そうだよな、それだけだったのだものな。
 君の脳裏《プール》に浮かんだ人物が、不特定多数ではなく、限定的な、特定的な誰かへ何事かを呼びかけていた(叱り付けていた、語りかけていた、難じていた、悔いていた……)という事実……そういった彼らの人との距離感(?)は、おそらく君のなかの何かを表しているはずだし、ここは書き手としての君の急所……いや、どうだろう、どうだろうな、まあ、どうであれ、君にとって考えどころかもしれないな。



 ●手紙で
 それが手紙であるということは、なにか説明的な一文が無ければ伝わらない、と君は反省する。それがなければ、手紙調で書かれた文章とは、限定的な関係性にのっとった一人称に過ぎない。
 まあ、ブログの日記だし、そこまではいいだろう、と君は気を楽にする。張り詰めていたものがそれで溶けて、気持ちのなかに余裕が生まれる、気がする。そこで想像力を否定するのだ、安易に隙間を埋めようとする心の弱さが招き入れる想像力なんていうものは、偽物のイマジネーションだ、というような話を思い出す。そうだ。あの女の語りだ。君は特定の神を信じていないが、その話には思うところがある。真空のままでいること。封じたり、閉じたり、埋めることのためだけに無反省に繰り返される想像力の使用は、それは放恣や散逸でしかないのかもしれないと、君は考える。抜け落ちた、欠けた、崩れて形でなくなったものが空けたスペースを、そのまま感じとること。そして、それをひとつの……浮上の? 飛翔の……落下の、チャンスとすること。全的な善の話だな、いま君が考えているのは、そうだろう? しかし、全的な善なんてものは、おそらくないんだ、ということにも気が及ぶ。なぜならば、彼女の話によれば、善は成り立ちとして全であるのだから、全でない善とは不全であり不善、いや、それは堕落したレトリックだな、全でない善とは、おそらく「非善」であると、彼女は言うだろう。
 綴じられたもの、封じられた過去、現前されつつある体験として恵まれるが(生じるが)すでに事切れている(終わらせられている)もの、紙に取られたもの、記されたもの、浮かび上がる文字が読ませるもの、一定の時間や空間を渡ってきたもの、人の手を介して届けられたもの、直接的ではなく、譲られたり遠まわしであったり委ねられたもの、関係性における栞のような役割を担うもの、いやがおうにも関係性における栞のような象徴を帯びてしまうもの、受け手が想定されたところでの書き物、送り手と受け手という役割を浮かび上がらせるもの、音や抑揚や時や場から離れ、文字の形や具合が、それだけでなにかを伝えるもの、どこで開けられるか(読まれるか)わからないもの、合理的であり不合理でもあるもの、読まれる時や場所を書き手が想像(強制)できないもの、事故など不測の事態の可能性がゼロではない流れに敢えて乗せるもの、そういった物語に通じるもの、ある種の危機を通過したという感動の芽のようなものを感じさせるもの、それによって人と人との関係性を変容させる可能性のあるもの、流通する奇跡、ある流れや人の手を介したことによって関係性を奇跡で揉み解すようなもの ―― と、君は手紙についてあれこれ考えた。
 もらって嬉しいと、そんな風に読めることを一言も書かないところが、君らしいといえば、君らしい。





君はざっくりと日記を書き、その骨組みをすこしづつ削り、あたりをつけながら肉をつけていった。それでだいぶ時間が経った。息抜きのブラウジングの最中に、君は気になるニュースを見つけ、メモを取る。


卜部弘嵩、瀧谷……そして堀口恭司
相次いで興行の“主役”となった若者。幼いころから総合格闘技を見て、稽古をしてきた世代。
なかでも堀口は1990年生まれの21歳、青木真也に「世界一になる素材」といわしめた“才能”。


あの青木真也に? と君は驚く。
そうまで言わせる堀口という格闘家の試合を見たいと、痛切に願う。



ここまでが、昨日、君が書こうとしたメモだろう。
どれもこれも忘れずにいたいと思うが、裏切りあったすべての恋人たちが去っていったのと同じように、なにもかもが君から失せるだろう。そのとき、白くなる心については、もう上に書いた、と君は思う。不在とは、存在の一形態だ。無い、という形で、そこに在るのだ。しかし、君のなかで、この言葉はまだ理屈でしかないことに、君にしたって気づいているのだよな。理屈を血肉に変えなければ、と思うのだろう。必要があるから考えるのだ。考えたことが、次の思索につながり、そこで発見をするために、いまの鍛錬が要る、と君は思う。そうでないない知識や経験がなんであるか、ただ人をたぶらかすためだけの毒ならば、ひとり吐き出してしまえばいいのだと、そう君は思う。そして、だからこそ理屈から脱し……言葉を固めた骨を伸ばし、そこに想像の肉をつけ、いつかは脈打つようにと意気込んで……気概をもって……君はそうするべく努力するのかもしれないが、かなしいかな、何が身に付くか、言葉のどこまでが君の細胞に生まれ変わるかは、そういった因果のほとんどは、君の自力には拠らず、送られたり恵まれたり、あるいは押し付けられでもしなければ……いや、よそう。もう黙ろう。いつか教えてくれないか。そうせねばならない正しさが、まっとうが、善が……すべて果たされなくとも、救われる術があるのかどうか……それについて何か君が感じ取ったならば、すべてでなくてもいい、知らせてほしいのだ。



君は知らずにいるのだろうが、これは明確だ、はっきりしている。いま君は恐るべき変化の最中にある。それも君が思っている以上の速さで、だ。何度目かの脱皮だ。何度目かではあるが、やはり初めての脱皮だ。どうだ、自覚していないのだろうが、省みてわかるかもしれない、どこか苦しくはないか、まっすぐ歩けないのは眩暈のせいではないか? 君が蛇であるならば、その胎は爆ぜそうなほどに膨れているはずだ。溜まっているのだ。すでに飲み込んでいるものがあるだろう。それと、じき口にすることになる何かが、すぐそこまで来ているのだ。注連縄《しめなわ》のようにとぐろを巻いて、その時に備えるといい。もしかすると、空から君を狙い、一瞬で爪にかける何者かが現れるかもしれないが、だとしても君は失われない。無論、それは君にとって救いではない。