松田直樹に捧ぐ



●金曜コラム
   「背番号《ゼッケン》3、永遠《あお》に透く」





澄んだ水でいっぱいのプール、その周りには白いテーブルとチェアがあって、ジャージ姿の男たちがはしゃいでいる。
秋田豊が手を叩き、中山雅史が飛び跳ね、稲本潤一明神智和が合いの手を挿す。
2002年日韓ワールドカップを直前に控え、懇談会を催した日本代表チームの風景だ。
この日ばかりはと冗談を言い合い、ハメをはずす代表メンバーたちから少し離れたところで、中田英寿はくつろいでいた。それを、10代から共に闘ってきた松田直樹がいじる。
「中田が飛ぶーぞ 中田が飛ぶーぞ 中田が飛ぶーぞ」
松田がコールを煽る。
中田がやめろやめろという顔をするが、すでにプール際に追い込まれている。
5.4.3.2.1……水しぶきがあがる。


松田直樹は2000年代の日本を代表するサッカー選手だった。
ポジションはDF。ゴール前で敵の攻撃やアクションを潰し、失点を防ぐプレーが最優先されるこのポジションにあって、松田は攻撃的で目立ちたがり屋、そのあべこべな雄姿は、ルールのあるスポーツにおいて、矛盾というより開放や反逆の性はもとより、革命性をも感じさせた。もちろん日本では希少種、海外の一流選手にも通じるオーラを放つ選手だった。
事実、チームメイトばかりかライバルからも「日本で唯一、海外リーグで活躍できるDF」と賞賛を浴びた肉体と、無精ひげが似合うワイルドな風貌は人目を惹いた。だが、この不世出のDFと共にプレーした選手が口を揃えるのは、彼の心の優しさや細やかな気配りだ。また、真っ直ぐな性格は二枚舌や建前が孕む厭らしさを拒み、何人もの監督たち ―― トルシエジーコなど歴代の日本代表監督とも繰り返し衝突した。口喧嘩が表沙汰になり、代表を追放されたこともあったし、自ら合宿地を離れた事件も一度や二度じゃない。
情熱、コントラストの強烈な自意識、比類なきパーソナリティ、ときにトラブルを招くほどの誠実さ ――
このような松田のキャラクターとプレースタイルはカリスマに富み、背番号3番といえば松田直樹、クラブでも代表でも抜群の人気を誇るチームのガキ大将だった。そして松田もまた、ファンとチーム、フットボールを誰より愛した。


スカパー、民放にBS、早朝深夜問わず放送されるフットボール中継と雑誌やネットの記事だけが、深酒と睡眠障害を煩っていた不感症の学生=モラトリアムにとっての刺激だった。時はまさに松田直樹の絶頂期《キャリアハイ》。日韓ワールドカップでも日本代表の屋台骨としてプレーし、そのポテンシャルの実現が、ままA代表の成功につながる印象すらあった。あの頃はまだ、私はフットボールを書くという将来を、心のどこかで夢見ながら、観戦メモをとった。文面は走り書きで埋まった。決まり事にうるさいフィリップ・トルシエが率いる日本代表チームにあって、抑えられた獣性をぎらつく両眼いっぱいに湛え、ときに拘束や規律から図らずもあぶれてしまい、その姿が味方を、ファンを、私を魅了する松田直樹の姿が、もう辿れない乱れた筆の跡に残像した。


2010年。
全盛期と比べれば松田の肉体的な衰えは明らかだったが、このシーズンも所属する横浜・F・マリノスの中心として闘った。が、シーズンオフにクラブから解雇通達を受ける。
対応、タイミング、伝達の仕方、どれもが非礼にあったと伝えられる経営陣の態度に、サポーターが激昂する。
16年もの間、クラブのシンボルとしてプレーし、マリノスに骨をうずめたいとまで言って尽した松田選手に対し、あまりにも無礼だ、撤回しろとスタジアムは怒りに沸いたが、クラブ側の翻意は得られず、別れのセレモニーが催された。スタジアムに集ったサポーターは一様に極まり、嗚咽するファンのジャージは涙で色を変えた。
壇上にあがった松田がマイクを手に取る。
「いやぁ、チャブられました。いらないか(笑)16年間、本当に生意気でわがままな自分を応援してくれて本当にありがとうございました。おれは馬鹿でずっと生きてきましたけど、みんなが応援してくれたから、マリノスでの1試合1試合は気持ちを込めて戦ったと思うし、もちろんオレにキレた人もいると思うけど、みんなの声援が自分の力になりました。マリノスのサポーターはマジで最高っす。今ここで喋ってますけど、社長みたいに頭良く紙に書いたりも出来ないし、こんな時間でみんなに対しての気持ちは伝えられないんですけど、とにかく、みんなが何回も言うけど最高としか言えないんで。あとは、本当に感謝の気持ちしかないです。ただ、もう何言ってるかわかんないけど、ただ、おれ、マジでサッカー好きなんすよ。マジで、もっとサッカーやりたいです。本当にサッカーって最高だし、まだサッカー知らない人もいると思うけど、オレみたいな存在っていうのもアピールしたいし、サッカーって最高なところを見せたいので、これからも続けさせてください。本当にありがとうございました」
別れの言葉だった。


マリノスを退団し、松田が選んだ行き先は、長野県松本市を本拠地とする「松本山雅」。
J2やアジア地域のリーグなど、いくつもあったというオファーの中から、日本では3部にあたるJFLリーグへの移籍に多くのファンが驚いたが、松本山雅というクラブを自分が引っ張り、このクラブをJFLからJ2に引き上げ、やがてはJ1に舞い戻る ――
自負と反骨の心に貫かれ、どこか少年っぽい夢もある、これぞ松田と言わしめる決断だった。


その松田が倒れた。
練習中に?
どうやら、悪いらしい。


1993年、日本でU17のワールドカップが行われた。
第一試合、ガーナ戦。
大粒の汗で光るガーナ選手の肉体を見れば、日本人の筋肉とは質が違うことが、なぜかよくわかった。飛べば頭一つ、いや二つは高く、伸ばされた足は鞭のようなしなりを見せ、日本チームの面々が必死に追いかけるボールを悠然と物にした。
特に若年層において、日本選手とアフリカ選手とはフィジカルに違いがありすぎ、押し合いや競り合いに痛々しいまでのギャップが見られことも少なくない。
この試合も劣勢だった。だが、松田は違った。
よーいドンで競争になればガーナの選手に負けないスピードで食らい付き、体をあてれば敵が倒れ、ときに倒されても睨み返し、勝つまでやるんだと咆哮しているかのような眼差しに、抜群の将来性を期待させた。
以来、場をかえ試合をかえ、松田に見せられたのは光の透ける未来だった。


それが、なんだよ。倒れたって、なんだ。数日前、山雅に移籍した会見で笑ってたじゃねえか、おい、松田、返事しろよ。


松田直樹は山雅でのトレーニング中に急性心筋梗塞を発症。
意識不明の重態で病院に運ばれ、2日後、帰らぬ人となる。
34歳だった。


訃報を聞き、何かしないではいられず、黙祷の意を込めてマーク・ロスコの作品をブログに貼り付けたりしたが、ごまかしにもならず、浮かんでくる感情は言葉に留められなかった。
聞文のリーディング用に何か書こうと思ったとき、松田直樹の顔が浮かんだ。
およそ一年が経っていた。


負けず嫌いで、競争すれば一番じゃなきゃ気がすまず、向う見ずでタフでドラマティックでありながら、いつもどこか物悲しかった。淋しがり屋だったから、遺されるのを嫌って先に、誰より早く逝った。わがままで、不器用なやり方で、忘れないでくれよとはにかんで、トレードマークの背番号3に託したのか、マリノスの、代表の青を、永遠を。それなら、あんたらしかったってことなのかな。


耳を澄ます。


夜蝉が鳴いてる。


聞文の開催日は、はるばる神戸から参加してくれると返事をくれた西田さんに、スケジュールを聞いたうえで、ピンポイントで決めた。
偶然にも八月四日。
松田の命日だった。