金曜コラム


●木曜だけど



『顔無しは二枚舌 〜男子五輪フットボールチームに〜』


五輪男子サッカー。
準決勝の『日本×メキシコ』は1-3でメキシコの勝ち。
前半の日本はそれなりに動けていたが、途中から様子がおかしくなり、後半には大会前のチグハグ感が戻っていた。
原因? 
なんだろね。
準々決勝で延長までやったメキシコのほうが疲れていたはずだけど、体力的な問題もあったか。


ストレスかかる男だらけの集団生活も一ヶ月に及ぶ。
強い気持ちを保ち続けるためのメンタルパワー。
体力よりも、こっちの消耗が激しかったかもしれない。
ゲーム内容としては、なでしこほど酷くはなかった。
90分内で決まったメキシコの2点得点は、年に2度は打てないグッドショット。あれは仕方ない。バイタルエリアでシュート打たれた時点で負け、とも言えるが、特に1発目に関してはオフサイド崩れのセットプレーが起点だった。直前のメキシコ選手のダイアゴナルランは、DFラインを見ていた吉田選手があれだけ怒ってたので、オフサイドだったのだろう。失点を責める気にはなれない。


試合前のインタビュー、男子フットボールの日本選手は「必ず決勝に行く」と口を揃えていたが、実際のゲームからは「がむしゃら感」も「必死さ」も、いまいち伝わってこなかった。
勿論、本気でやっていたはずだ。
心や体を限界まで熱するには相応のエネルギーが要る。それが足りなかったのだろう。


ここまでゲームを決めてきた清武&永井のコンビが、早い段階で消耗し切ったのも痛かった。
後者に関しては怪我の影響もあっただろう。
今大会でぐんと伸びた大津選手が走り回ったが、さすがに3人分はカバーできない。扇原選手と山口選手、二人の中盤にミドルレンジのミスパスも目立った。流れを掴めなかった。


五輪チームが発足して2年間、彼らの試合はほとんど見た。
そのうえで関塚監督を批判してきたし、グループリーグ全敗で妥当と分析していた。
だが男子チームはベスト4に残った。読みの甘かったおれの実力不足。反省してる。
直前のテストマッチ2試合。
ここで日本の男子五輪フットボールチームは粘り強い試合をし、結果を出したが、彼らに一切を期待していなかったこともあって、これを大変化の兆しとは捉えず、一時のバブルとして切り捨てた。関塚監督の采配にしても変化は見られなかったのだ。
が、これが読み違えだった。
2年間にわたって飲まされ続けた煮え湯が効いて、激変の胎動を聞き取れなかった。
パスゲームからカウンターへ ―― 戦術的なモデルチェンジがされていた。
今思えば、選手の顔つきも出足の速さも違っていた。
見ない、感じない、受け止めない……というバイアスの恐ろしさだ。
いま最低で最悪で二度とどうにかなることはないように思えても、いつか善いほうに変化するかもしれない、という可能性を棄てたらいけなかった。
チームというものは変わる。それも、たった1、2試合で。
男子チームに一発食らってから再確認するんじゃ遅すぎるが、教えてもらったことに感謝する。
3位決定戦は韓国。日本戦には燃えてくるだろう。


W杯の岡田JAPAN、五輪の関塚O代表ともに、直前までダメ、大会に入ったらぐっと調子をあげるという流れでトーナメントに勝ち上がった。既視感があった。
思い出しておきたいのは、岡田・関塚ともに、Jで結果を出していた時期に採用していたのは「カウンター」スタイルだったこと。
日本サッカー協会は、どうして二人を監督に選んだのか。
どのようなスタイルで、どういった目標をタスクと指示し、彼らに選手を率いさせたのか。
パススタイルは世界の潮流であり、見栄えもいい。監督として憧れはあるだろう。だが二人揃って構築し切れなかった。この点を協会の連中はどう見てるのか。
任命の責任は誰にあるのか。
そして、これは五輪前にも書いたことだが、男子五輪チームは何をタスクとして大会に臨んだのか。
メダルの獲得? 
ならやり方はなんでもよかったわけだ。
それならどうして、関塚氏を監督に据えておきながら、パスゲームを指標するという意味不明な脈絡を放置したんだ。


彼にはじめからカウンタースタイルをやらせれば、直前のストレスも不調もメンバー選考における錯乱も、ああまで酷くはなかったはずだ。
それをプロのライターや関係者は1人も指摘しなかった。
すくなくとも、おれはメディアを通じて、そういう協会関係者の声を聞いたことはない。
関塚氏は監督を引き受け、運動量のあるパスゲーム主体で戦うというコメントもし、大会前の準備には失敗した。時間と資金を使い、結局狙ったスタイルは作り上げられなかった。ベスト4に残ったからといってオールOKじゃない。この浪費は繰り返してはいけない。
問題は関塚氏が自分のやれることと、やろうとしてることのミスマッチを現実的に解消し切れなかったことだけじゃない。
問いに戻る。
「なぜ、なんのために五輪に出るのか」。


そもそも、このチームはメダルを取ることだけが求められていたんじゃない。
急所は、この点の曖昧さ、コンセンサスのなさ、説明の乏しさだ。
つまり、関塚監督は「形はどうあれメダルを取って来い」と命じられていたわけではない、ということだ。
彼には「メダルは取って欲しい。だが、それだけじゃない、だめ、足りない」という協会、メディア、そしてファンからの重圧、曖昧で息苦しいプレッシャーがあったはずだ。
また関塚監督は、集めた選手たちの適正や資質を伸ばしてやりたい、よりよい選手として育ってほしい、という親心もあっただろう。カウンター戦術に縛り付ければ、せっかくの五輪がほぼ「勝つため」だけに消費され、同世代のトップ選手とのギャップや自らのパワーポイントを確認できずに終わる。おそらく、関塚監督はそれを避けたかった。


おれは、ここが「甘さ」だと言っている。
誰の? 
それは監督のであり、かつ、指示しきれない協会の未熟さだ。
五輪を育成や経験の場として使いたいなら、メダルを取って来いと命じなければいい。
絶対にメダルをというのなら、全世界から非難されようと、負けないようにする。それしかない。
結局、サッカー協会や監督から、大会前までこの点については何も話されなかった。
具体的な話は一度もなかった。
決めきれない監督、その監督に率いられる選手たちはフォーカスし切れなかった。
メダルを、結果をと言われながら、いいかっこして勝利してほしい、活躍して世界から認められる姿も見せてほしい、という曖昧で不明瞭、それでいて相当な重圧がかかるタスクを与えられ、関塚監督および選手たちは本番直前まで迷った。


日本の組織でトップまで行くような人間は、おおきなヴィジョンを作り上げたり、それをきっちり説明する経験を積んでる暇なんかない、ということは察しがつく。おそらくリーダーシップもとれないし、ヴィジョンも語れないだろう。日本にどういったフットボールがふさわしいのか。どう作り上げ、どう伝え、どのように広げようとしているのか。きちんとした説明は行えないのだろう。もしそれができるなら、逆算して「いま五輪チームに求めること」も明らかになる。
日本フットボールはまだ、外国から代表監督を呼び、彼らのスタイルやイメージでもって、日本サッカー全体の透視図を描いている段階だ。
小回り、細かな技術、持久力を活かしたフットボールがいいんじゃないか、というイメージが共有されつつはあるが、五輪男子チームが迷走したように、まだ確実なものではない。
勝利か美学か。ゲームにおける優先順位はどちらなのか。
欧州や南米における強豪国であれば、国民的なコンセンサスはある。
(もちろん変わった奴はいるし、そういう人間が次世代の潮流の源になるが、それはまた別の話だ)
日本はまだ、そのような物差しは共有されていない。


待ってる暇はない。
大きな大会は次々に開かれるし、選手にしても、上の優柔不断・不明瞭さに引きずられ、犠牲になるには短か過ぎる選手生活だ。
選手はまず「五輪に出てメダルを取ります」という言葉の曖昧さに気づくべきだ。
そして自覚する。
指示を待つのではなく、自分の声をどんどん出す。
自分はこうしたい。こう戦いたい。自分にとってゲームとはプロとは、かくあるということだ、と協会や監督に知らせる、ときに強く求める。
外から与えられる物語、大枠、フレーミングやイメージの仕上がりを待つのではなく、自分で模索し、適正と向き合い、弱点を克服する時間のなかで鍛え上げた自分なりのイメージを、組織の内から要求していく。
今大会、メダルが取れようが取れまいが、どちらでもいい。
おれが期待するのは、そういう選手が1人でも多くなること、それだけだし、育成を念頭に置くというのなら、なおのことこの点をふまえるべきだ。
名の通るクラブでプレーするようになっても、どのような難しいゲームであっても、揺るぎない芯を据えた選手であること。
闘えるプロ選手になるための最優先事項だ。