五輪が終わり、サッカーの簡単なまとめ〜宮間選手の挑戦は続く〜


●月曜だけど



金曜コラム『瓦礫の山に、一輪《ソロ》のなでしこ』


●叩き、弾くのは
 口数でなく引き金


無声映画の主演でどうか。

相も変わらずホン・ミョンボが激シブだった。ミョンボ氏はロンドン五輪に出場した韓国代表フットボールチームの監督であり、世界的なハンサム系の首脳陣、ファンマルバイク(オランダ)、モウリーニョポルトガル)、レーブ(ドイツ)らと並んでも、深い沈黙に怒りが宿る ―― 年季入りのギャングスタ的風貌(口を開くより、引き金を弾く回数の方が多い)の見栄えは色あせない。


そんなミョンボ監督の怒気に沸いたのか、日本×韓国、男子五輪フットボールの三位決定戦は荒れた。

韓国が連発した、相手を怪我させかねないアタックは言い逃れなしのアンフェアだったが、それがファウルになるかカードものなのかを判断するのは主審だ。見逃され、痛み、かといってそれで挫かれれば韓国の思う壷だ。熱に浮された野良犬の喧嘩モード。日本も次第にヒートアップし、難しい試合になった。


韓国の先制点、あの場面で最後に追った日本のDFは誰だった? 
敵の体にくっつくところまで寄せられなかったのか? 
免れ得ない失点だったのか?


日本にしてみれば猛省は必須だが、中立的に見えばあれはパク・チュヨンのファインショットだった。
得点したチュヨンはこの大会、期待された通りのプレーをしておらず、韓国メディアに批判にされていたらしい。三位決定戦でようやく、このオーバーエイジが意地を見せた。
ラフプレーが多く、体力的に厳しい状態で行われる試合は、えてして個人技で決まりがちだ。このゲームもセオリーに適った。
韓国が追加点を獲り、0-2-で日本が敗れ、銅メダルは韓国のものになった。


この五輪男子フットボール3位決定戦、TVで見ていた。
ここ数年では珍しいほどの挑発を繰り返す韓国チームにうんざりしたし、体力的に消耗していて運動量があがらず、パスワークやコンビネーションにも綻びが生じた日本チームにも物足りなさを感じ、集中できなかった。覚えていることが極端に乏しく、ほかに書ける事がない。
日本五輪代表チームの感想と希望は、妄想劇場「8/8金曜コラム」に書いた。


五輪には16チームが出場するが、全6試合を戦えるのは4チームだけだ。日本はそこに残った。本気モードの世界大会で6試合やれた。レギュラーで出た選手、交代出場で起用されることが多かったプレーヤー、主にベンチで過ごしレギュラーをサポートしたメンバーなど、選手それぞれに特別な経験を積んだはずだ。6試合分だけ、人目にも触れた。ヨーロッパのクラブチームから注目を集めた選手もいるだろう。ロンドン五輪チームから何人がA代表に入り、レギュラー陣を揺さぶり、奪い、世界的なフィールドで活躍できるようになるか。今後が楽しみだ。

なんにせよ酷い怪我がなくてよかった。



●女子フットボール
 宮間が志す地平《みらい》


女子のベストチームは圧倒的にフランスだった。

昨シーズンの女子CLを制覇した、フランスのリヨンというクラブをベースにしたチーム作りが成果を見せ、女子フットボールシーンにおける今後のモデルケースを提示した。前線にはスピードとテクニックがあり、DFは高く、固く、速かった。このように現代的で魅力的なフットボールをしたフランスチームへの期待は大きい。

ただ、彼女たちは初戦のアメリカ戦を2-4で落とし、準決勝で日本にも勝ちきれなかった。不運に泣いた、とだけ言うのは過ちだ。勝負所における甘さや隙 ―― おれには詳しい原因がわからないが、何かあるはずだ。そこを詰められるか。詰められれば女子フットボールはフランスが主役になっていく。


決勝に関しては、日本はアメリカに勝たなきゃならなかった。

それは彼女たちが背負ってた(背負わされた)ストーリーを果たすためではなく、そんな競技に関して枠外の話ではなく、女子フットボール全体の競技レベルを一気に上げ、普及に広がりも得られる機会だったからだ。古臭くて筋肉臭が濃いアメリカに勝たせたらいけなかった。

この大会を通じ、アメリカがデカイ身体と恵まれたパワーごり押しを自分たちのスタイルとして誇り、そこにアイデンティティやコンセンサスがあるのなら文句はない。ならば伝統だ。財産だ。継承だ。でも彼女たちは違った。日本に勝つためだけに、負けたくないがために、金メダルのためだけに、あのように古びていて、アメリカチームのファン以外誰も喜ばないスタイルに戻した。落とした。妥協したわけだ、あの守備に偏ったカウンタースタイルは。


おれはフットボールに関しては完璧に理想主義者でロマンチストなので、このアメリカの判断を受け入れるわけにはいかない。守っても得点機を作り、相手を上回るスコアで勝ってメダルを取った、その勝負根性はリスペクトするが、棄てた過去にさかのぼり(W杯で日本に負けてから、アメリカは変身しようとしていた)、しがみついて醜くやった理由にも動機にも反対だ。フットボール強豪国には責任があるんだ。この話は長くなるから端折るが、おれは責任を棄て成果だけを取りに出たアメリカに落胆したし、日本にはこういうアメリカを倒す義務があった。


この大会の日本女子チームは、省エネで抑えたモード、決勝に全てを賭けるにしても、あまりにも程度が低く、見てられないゲームが予選からトーナメントにかけて何試合もあった。決勝のアメリカ戦にしても、すべてをぶつけたにしては決勝の後半になるまで、本来のフォームを取り戻せず、プレーを楽しみながら盛り上がる彼女たちらしさも表現されなかった。
なによりも、W杯直後までは保たれていた、「正確な長短のパス&細かでタフなムーブを組みあわせたスタイルを構築し、パワー&チャージ全盛の女子フットボールのイメージを刷新する ―― ひいては競技のさらなる普及に一役を担う」という可能性を放棄した点に違和感があった。


W杯の優勝以降、沸いて出た虫のように群がった連中からの無責任かつ多大なるプレッシャーにさらされているうち、最後の最後で「自分たちの和」や「日本女子およびその周囲にあるエピソード(つくられ、おしつけられた神話、文脈)」の内側に固く閉じてしまった、外に開いている意識を持続させられなかった、きつさがあって内心に閉じ篭る以外なかった、そうなるしかないところまで追い込まれた……という擦れ枯れた残像が見えた。昨日までバイトしながらプレーしていた暮らしから、いきなり祭り上げられ、視聴率とスポンサーを集めるコンテンツとして用いられ、消費されるようになったんだ。その状況をうまく使い、自分の夢を尽くしていく図太さまでを期待するのも酷だろうし、現実に心が追いつかなかった面もあるだろう。自分たちが培って、信じてきたチームや仲間たちとの和を最後の頼りとし、内側だけを見るしかなかったことを頭ごなしに批判するつもりはない。ただ、開かれていれば、もっと多くの物がもたらされる機会だったと思うから、残念なんだよ、おれは。


たとえば、アメリカがこの金メダルに味をしめ、保守回帰でやっていくんだとしたら、それはそれで面白い。ガッチガチのカウンタサッカーも誇らしげにやられるなら競技の妙だ。シーンのバラエティに欠かせない魅力を発する。ただ、それだけが広まり、そうしなければ勝てなくなる退屈極まりないし、また様相として異常であり、いまだ実現されないフットボールの可能性を想像すれば、貧しさに過ぎるなんことはすぐわかる。
アメリカとの決勝戦、日本が勝てば女子フットボールの質は3年、いや5年分くらい加速的に向上しておかしくなかった、と言い切ろう。サイズがなくても、パワーやスピードで劣っていても、五輪に勝てるんだ、という証明が出来たんだ。よりファンを獲得し、シーンを拓く未来がそこにはあったはずだ。


彼女たち日本女子チームのメンバーが銀メダルを授与され、大満足ならば、それでいい。節制と協調を強いられるトレーニングや合宿を、最後までやり通した結果だ。
ただ、大会を通じて口を揃えていたんだ。
「絶対に金メダルが欲しい。それを取るために行くんだ」と斉唱していたのだ、彼女たちは。
内実、たった1試合も90分のコンディションがキープできず、内容にしてもスカスカだったうえ、自分たちのことだけを考えて超保守に転じたアメリカに敗れたのに、解説者や関係者の多くは「メダルを取った! 取った!」と嬉し涙していた。
パススタイルもピーキングも、ゲームコントロールも最低だったのに?
じゃあなんだったんだよ、あの「金! 必須! 金! 必勝! 金!」の連呼は。


ひとり違う選手がいた。
女子チームで主将を務めた宮間選手だ。
アメリカに敗れ、普段は冷静沈着で知的な彼女がピッチに突っ伏し号泣し、その理由を「負けた。試合に負けた。ただそれが悔しかった」と語った。受け入れがたい現実に直面した直後に、彼女はいくらでも用いることができた「家族、仲間、メンバーに選ばれなかった選手たち……」のような出来合いの(かつ聞こえのいい)ストーリーを持ち出すこともなければ、口実や仮衣装で心情を覆い隠すことだって一切なし、端的でヒリつく言葉だけを口にした。造られ、偽られ、仕立てられた大きな物語に乱されることなく、つねに本質と自分を見つめ続けられる彼女の資質が現れた瞬間だった。


「日本のスタイルを魅せたい」という宣言に、女子サッカー全体をアップデートする気概を込めてきたのが宮間選手だ。
180cmあって50mを7秒で走れなければ世界大会に出るような選手にはなれない……のではないんだ、と。自分を見てくれればいい、と。身長が160cmに届かなくたって、足が特別に速くなくったって、流れを読む力と諦めない心、そして思いを伝える対話を志せば、サッカー選手になれる。楽しいプレーができる。君たちも住んでいる国の代表選手になれるんだよ、と宮間選手が語りかける相手は日本人の少女だけじゃない。インドで、セルビアで、ガーナで、ちいさな子供たちのなかにあって、ひときわ体の小さな女の子が、けんめいにボールを受け、追い、蹴る姿 ―― 右、そして左の両脚を使いながらフットボールを楽しむ姿が、宮間選手の言葉の向こう側には透けて見えるんだ。
アメリカ代表チームには、けっして伝えられない景色だ。


おそらく、ロンドン五輪で金メダルを獲っていたとしても、それが終わりではなかったことに、宮間選手は気づいている。
「なでしこ」として変奏された、きな臭い大和魂が唱和される中、ひとりピッチに伏し「ただ、わたしは試合に負けて悔しい」と泣ける主将がいることの救いと望み。
宮間あや
小さな体で走り続ける彼女の、誰より大きな挑戦《ソロ》は続く。



(2012/0813 金曜コラム『瓦礫の山に、一輪《ソロ》のなでしこ』)