何処“魔”の奴どこいるの退治しにいくよという看板を“わたし”フォンの帯磁に挿し。



フットボール雑感 4/10


日本代表×セルビアは0-3でセルビアの勝利。
セルビアからは、ゲームのヘッドコーチを監督を若手に譲られ、
(こんなことあるの? 忌引きのジーコがコーチに任せたケースはあるけど、いくらAマッチ認定じゃないからったって、前代未聞じゃない?)
セルビアリーグ選出のほぼ若い選手だらけに軽々まもられ、あのすげー速いFWにがんがん点をとられ、いったいなんのための試合だったのかよくわからず。
コンセプトもタクティクスもない。
セルビアはほぼ急造でこしらえられたチームだったらしーけれど、
「日本に来てから二日あった。なのでコンセプトをもってチームの方向性をあきらかにができた」
って監督が言ってたらしい。
まあ、そういうもんでしょう、そのためのコンセプトでしょーなと。
堅く守って、早く責める、じゃなく速く攻める。
コンセプトっちゅーのは要するにそういう約束事なんだと思うんだけど、
だから、岡田、なにがそんなに難しいんだ?
「きょうはいつもの連携がなかった」
って、あーなた、もー何年やってるの?
おそらく出来ないことをやろうとしてる。


日本フットボールの代表チームって、国際大会に臨む直前になって、ほとんどまいかい同じ轍を踏んでいて。
それは「最終的には、敵を見ないで、頑張ろう、みたいな精神論に拠ってしまう」という。
これって現実をみないで幻想に散るとも言えるし、特攻隊が人間爆弾だったように、戦争に猛進しちゃったことにも通じるんじゃないか。
岡田も「現実路線」とか言い出したが、はっきりいってあーたが言ってるのは「現実」じゃなく、おのれらの甘えた甲羅に閉じこもるだけであって、くるしいならさっさとグループリーグで闘う相手の分析を進めたらいい。
そこにしか光明は見つからないし、むしろそうやってさぐれば「3バックがどう」とか「アンカーがどう」とか、そんなもろもろははおのずと算出されるはずで。
それにしても腑抜けたサルだってもーちょっとマシに踊るんじゃねーかなっていうゲームでしたが。
ワールドカップじゃ石川と松井がキレまくってクリティカルな一撃を見舞う!
っていうドリームにトんじゃう以外に得点の匂いも勝利の予感もないポンコツチームになってしまったんか?
そもそも「なんのためのパスワーク? どうして中盤が厚くなきゃいけないの? なんでヨーロッパをベースにするの?」じゃないのか。
日本人プレーヤーを眺めたとき、もし国際大会で「勝つ」ことを望むなら(そのコンセンサスも取れてないっていうか、じつは勝つ必要ないでしょ、っておれはそう思ってるけれど)彼らが国際大会で勝てる戦い方を模索するべきだし、もしかしたら中盤を省略して徹底的にロングボールとカウンターみたいな、そういうプレースタイルしか活路はないかもしれない。
でもそれが「現実」であるならば、そういうやりかたを浸透させるものが「現実的」なコンセンサスだろう。
「3バック」だとか「アンカー」なんて気休めのタームでしかない。





ロストチャイルドとかさー、なに訳知り顔でほざいてんだオメーはスーツ着て安全なところで高い飯食いながらよー決め付けやがって。「失われたって」言い切るお前が、なんかモノにした顔してることが、汚らしい!
ふざけんなよ、だよ?
だから同じように通俗的にループされる2000年代に対する形容なんか糞食らえだし、命をとりとめてくれたオシムに頭を垂れる気持ちこそあれ「惜しみ」たくなんてないが、さすがに岡田のA代表がすごした今日までの時間こそ、これこそ「失われた3年間」だったんじゃないかしら。
おのれーの底の浅さ故に混乱や弱腰や頑迷を招いたアンタに同情の余地はないが、なにがってさ、日本サッカーに賭けて、世界中で本気で闘っている人たちの心を思うと、このマイナスがやりきれない。
いつだったかなあ、長沼かな? 元会長の。
「わたしが全責任を負います」ってかっこつけて、ぜったいにそのままじゃ駄目だよっていうケースで、ごり押しして、すげー日本的な馬鹿みたいなやり過ごしみたいな感じで、なにやら深刻な問題を先送りした会見映像を見たときも思ったけど、はっきりいってお前個人が取りきれるようなスケールにないんだよって話でさ。
責任、って。
いや、誰もが逃げてるみたいなんで、その言葉から、日本じゃどうやらそーらしく、だから岡田ですら潔いっていう言い方もできるのかもしんない。あの人も今回のの醜態で、もう二度と監督の声がかからないことに(オリンピック&ジュビロでチームを崩壊させた山本昌邦みたいに)なるかもしれないくらいの覚悟はあるだろうが、いや、そーじゃなくて、あーたが監督に復帰できないとかそんなレヴェルの問題じゃないんだという、三年間かけて、費用も時間もかけて、人もたくさん動いて、そんでこのワールドカップぎりぎりんなって、あの体たらくだよ。
こっから回復するのにどんだけ時間がかかると思ってんだ。
A代表に連なる世界に、どれだけの人がかかわっていて、どんだけの人に迷惑がかかると思ってやがる。
士気は下がるし問題は山積み。うなだれて、へきえきして、あきれる、そういうネガティブな感情を蔓延させて、それをどうやって「責任」とりきれるの?
ちゃんといいなよ、そこんとこ。
いまのまんまじゃ疫病をぶっ垂れ流してるみたいなもんだ。


岡田にやらせたサッカー協会の雑魚っぷりにも問題があって、守銭奴だったジーコ体制の引責みたいなかたちで(プラス、あきらめと疲労と落胆の故に)大事な仕事をしてきた人がたくさん協会から去ったけど(タフな貿易や資源交渉の経験を持って官僚から協会にハンティングされた稀代のマッチメーカー平田さんとか)、オシムが倒れたときどこのクラブの監督もやってなかった名のある力のある指導者は世界中に何人もあったのに岡田にやらせるしかなかったこともそう、誰にあたることもせずに(という報道があった、まあ、さだかじゃないけれど)とにかく岡田に任せた、急場しのぎだったし、事情はわかるよ、でも、それでしばらくやってみたけど、どうやらこの監督じゃ怪しいぞな・・・・・・っていうところまで一年かからなかった、それなのにずるずるずるずるやらせ続け、選手の士気は下がる、現実は見ない、強化策もあいまいになっていく、強豪国とのゲームは行われない、金儲けと視聴率集めのキリンカップで雑魚チームとのゲームばっかり、中身のない試合に集められて選手はさらに困惑、Jリーグ関係者やクラブチーム関係者との距離がどんどん大きくなっていく、さらにゲームで結果がでない、いつまでもスタメンが決まらない、そのながれでバックアッパーも流動的になってしまい、結局この残り二ヶ月になってもセンターバックの交代選手が一人も決まっていない! もろもろすべては岡田の責任でありもちろん日本サッカーの構造的な問題であって、弱点であって、恥だ。
そんななかどうやら虹釜さんによると元日本サッカー協会所属で強化担当だった小野剛GETSPORTS
「・・・・・・秘策はありますよ」と? お? ひさく?
それ聞き手として受けるだけでなくいつもどおり仰々しく前かがみになった中西テツーの
「ありますか? おおっ・・・・・・それは・・・・・・」
という神妙をむこうにまわし、こう言ったらしい。
「それは・・・・・・中盤での構成とかは一切見切って、ロングボールの使用を徹底することです」
ロングボールを蹴ること・・・・・・





でもマジな話、いまのコンディションだったら中村と遠藤をさ、フランスW杯前のカズと北沢みたいに切り捨てて(思えばあれだって岡田がやったことだった)カウンター&ロングボールのスタイルで攻略していくって腹をくくるくらいのことしなきゃ、どうしたって三戦全敗だ。
どう考えてんだろう。
もう二ヶ月しかないのに対戦相手を想定してのシュミレートするっていう、そんな当たり前の一言すら一度も聞こえてこないんだが、なにか奇策があるのか?
それとも気さくを失って硬直しちゃった口角だから何もしゃべれないのか。
さっきも書いたけど、日本が中盤の構成や組織を大事にしたところで、いまの選手層じゃ「カメルーン、オランダ、デンマーク」という、W杯のグループリーグで戦う三カ国とじゃひどく分が悪いので、だってボールかんたんに取られるしサイドからも真ん中からもズンズン攻められるし、防戦にまわる時間がかなり多い(ほとんどかもしんない)って、それはサッカーちょっと見てる人だったら全員がそう思えるくらいはっきりしてる力関係が明らかな状況に、それでどうして連携力や組織力を重んじるのか? 中村や遠藤は日本の中じゃいい選手だけど、世界一流がチームを構成するオランダやデンマークじゃ、ひょっとしたらA代表にも選出されないんだから、じゃあそういうクオリティな国がどうやって戦うのか、ジャイアントキリングを起こせるのかっていう、そういう発想がどうして起きないか。4-4-2とか3-5-2とか、バルサがパスサッカーですごいからとか、ユナイテッドがかっちりした構造と規則をもってはんぱじゃないからとか、そういう真似事じゃなくて、極端なこと言うと、ひょっとしたら日本が世界クラスのチームに勝つためには、8-2のツーラインとかさ、もしくは4-6にしちゃうとか、ショートパスは一切使いませんとか、そういうことなんじゃないかと思うんだ。
なんでヨーロッパや南米のスタイル、主流だったり、オーソドックスといわれるスタイルに重なる必要があんのかしら、と。
いや、もっと言うと、勝たなきゃだめ、っていうところからして借り物の哲学である。


日本には、どうしてフットボールが要るのか。
私に、フットボールが必要か。


要るのだとしたら、それは、どのような?





――シー2 抜粋――――――――――――――



ステージの上方、欄干に、大橋可也が、あらわれた <中略> ステージ、もっと外側の、ここに、ステージに、あつらえた、作品  p117


Q 鳴らないドラムス、鳴らされるはずのドラムスは、作品の始まりを待つ心理に、どんな音を聞かせていたか
Q その音は、いわば、作品の予感の音だったのではないか
Q だとしたら、そこを、反省しなきゃならないのではないか、というのも、聞こえるはずとしての音が心のなかに用意されてしまってたのなら、そのとき聞こえてた頭の中の音が、ほかの音だったとしたら、これから観る作品の印象が変わったんじゃないか、ということは、作品もまた、違うものとして感じられたんじゃないのか
Q 作品への期待や不安が、はじまった作品のどこかまでは、見る意識の傍に、走っていたはずなんだけれど、それが消えたのって、作品が始まってから、どれくらいのタイミングだったか
Q そういえば、こういった期待や不安が消えたのって、なんでだったんだ  p119


公演を過去と現在と未来をつなぐ点にすること、っていうか一線じゃないかもしれないけれど、きっかけ、こうどう、うったえ、だから放射状とか扇状の図に近いかもしれない、公演を公演で終えない、公演からの拡がりを求めていく、おそらく、これからを信じる、信じるという気持ちで、今をまっとうしてく  p120


これまでは、さまざまなテーマを謳ってさまざまなフレーズを掲げて作られたダンスであっても、それがダンスシーンに留まってきた、というか、どこか、ダンスシーンに留まれるというかダンスシーンが受け止めてくれるという無意識とかそういう開かれきっていないが故の痛みの少なさみたいなものに慣れている、慣れさせる、構造というか習慣というか前提を反省するんだと、そうじゃないもの、外にでて、出て行くと、出て、これまでになかった繋がりを見つけるのだ作るのだと、そうやって、そう思われて、願われて、はじめられた帝国エアリアルという公演だったんだろうと思うって彼女が言ってた気がする。  p120


『帝国エアリアルは、だから、作品は作品として始まって終わったんだけど、あれははじまりとして、はじめられたものは、終わらずに、終わらずにというか、はじまりを、見せてくれたんだろうと思うんです。いま、とか、げんざい、とか、げんきょう、とか、しんんそう、の、それらの一面は、あそこにあった、初台の新国立劇場の舞台にあった気がする』  p120