光の花、音の蜉蝣、時の蛍。森のminamoにつがう小鳥がうたう『でゅ、ぷリート、デュプ、りー』のメロディラインをチリワインにひたせばsolo andataという夜明かりの屈折が漣。


今夜は雨なので、うちに転がる静岡産フレンチの豚犬をおもむろに抱えまして「おまえはさー、もし人間だったら生きてくのなかなか大変だな? だってなんたって耳までだろー、毛の生えてないとこっていったら足裏とアナルくらいのメスだもんなあ、たいへんだよなー」と、くり返し囁いております。





うん、12KのSshowCaseすごくよかったですよ。明日館がああいう雰囲気になるなんてって感じで、それはどんな雰囲気だったかは訪れた人だけの秘密ですから言えないですけれど、そうそうminamoはどんな楽器をもちいてどのようなかたちで演奏しようと“人間がやってる限りそれは人間が出してる音だ”っていう(マル?マル?マル)からけっして逃げないよ、という音色が透明なポリシーを聞かせていてすごくよいと思うんです。
たぶんなんですけれど、エレクトリックサウンドなら“人間味や感傷や心象”を、エレクトリックでない音楽よりかなり容易く人間味や感傷や心象を断ち切れるんだと思うんだけれど(いや、これははじめに聴こえる耳障り=表層でいえばですが)minamoはそうじゃないです、そんな気がしていて、でもこれってボサノバなどに聴こえるいわゆる「郷愁/サウダージ」とはぜんぜん違うところもすごく魅力で。サウダージサウダージでいいし好きなんですけれど、minamoの“人間味や感傷や心象”っていうのは、んー、なんだろうなあ、ひとつ言えるかなーというのは、それは“ふりかえってるかんじがない”ということかしらって感じで、でもそこからはいろいろ言えるとしてもここに書くようなことじゃないと思うし、よかったらminamo聴いてみてくださいって思います。一曲づつのクレジットになってるCDで聴く面白さ(編集されている、彫琢されてる、くみたてられてる、じょうずな積み木みたいな、いとしさに編まれたデートコースのような)とはちょっとちがう、あれは30分くらいのタイムスケールに、事前にモードに関する打ち合わせはあったんでしょうけれど、おそらくタイミングや流れにかんしてはほぼインプロで奏でられるサウンドアートでした。どこかで聴いたことがあるのだけれど、それは未来を生きてみなければわからないな、っていう予感がいくつもの楽器に生じる叙情にあふれた両義的な時間でした。
ひさびさのライブ前だというのにいつもとかわらない佇まいで迎えてくださった安永さんのライブ初めて聴けてよかったです。
イトケンさんやハマさんにもご挨拶できたんです。
12kからリリースしてる三組のアーティストだから通じ合うところがあるのだということと、だからこそおなじ夜に舞台にあがれば、それぞれのパーソナリティが際立つのだというところとあって。(メロディがあるとプライベートな音楽のように聴こえることと、メロディがないとスケールに聴こえるということとをメモしておく)
でもひとつ、minamoはノートブック使ってなかったかな? そのときは座ってるところから舞台が見えなかったからわからないんだけど、Deupreeとsolo andataのステージのラップトップのロゴ部分に逆さになったリンゴマークが光っていたことが引っかかった。
それってなぜだろうな?
どこもかしこもアップル、あっぷる、まっくまっくマックまっくのマーク。。。。。。。ああいったミュージックにあっぷる。。。。。アップの音楽にリンゴマーク。。。。ああいった音楽でないサウンドにもあっぷる。。。。。。。。。。人間世界を離れていく(いる、いった)みたいなサウンドにもやっぱりアップル。。。。。。





音の波、でもどんな音だって波であって、その波を意識するかしないか、意識できるような構成に波長になっているか、波のながさ、波のあつさ、波のたかさ、線状ではなく帯状になるとオーロラが見えるということ。そういう帯状の膜状の幕状の……………………ゆるやかでおどるようでなびくみたいな重なり、ゆるやかでおどるようでなびいているということはそこに時間が流れていたということと(時間の流れとして音や場をすごしていた“私も”いた、ということでもありますけれど)マテリアル/アイテムとしての(丸?々?マル?)が切り結ばれていたということでもあるように思えるのですけれど、その「肖像/心象」はさまざまな印象のコラージュであると同時に各種エレメントが渾然一体となって織り成された「いちまい」のレイヤーでもあるというコントラスト鮮やかな気のとまりに――うかぶ景色や景観に――こころを放ったらどうなるのかしらと、こころの波にうかびながら物語をすごすけれど、いっぽうで音の重なりや音のかずや音の長短や音の厚みや薄さややわらかさがどのようにコードを成しているか気をとめているときは音の意味だとか曲の可能性だとか構造の成り立ちを思って、すべてのことがらが「書くことのヒント」になるのです。こういった体感は文章を読んでいるときはほとんど起こらないので、音や絵やデザインや建築や料理や髪をやっている人たちと長く話しができるのは得がたい経験だし、かれらの舞台や作品を心待ちにしています。そんな機会に私もなにか還せるようにと、たぶんそんなことを感じているのですけれど普段は、こういったもろもろってふだん言葉になっていないし意味としてロジックとしてまとまり的に保存させているわけでもないので(それはわざとそうやっているところもあるのですが)とっさに説明することがすごく苦手だなと最近よく思うので、どうにかやらなければと改まります。やっぱり、どこかに公表するためとかじゃなくて、せっかく面と向かって話ができる機会に、すこしでもじぶんが考えていることややっていること、書いてきたこと、書かせているモチベーションやアイデアについて、おもしろくわかりやすく話せるということがあったって、いけないことじゃないんだろうなと思うというか、です。おもしろくわかりやすく話せることが増えていったところで、どのみち、おもしろくもわかりやすくもないことと、これからも絡まり合ってやってくってことは、それは、そうなんでしょうしね。





ライブきいてたときに浮んでは消えてしまうさまざまなヴィデオ映像みたいな心象をその場で書き留めてけたらどんだけいいだろうと思いました。もちろんやっていることでもあるんです、ずっと、そういうことも気にしてモノを書いてはきているんです。ただし、そうやったところでそのどれもこれもを救い出すことなんか叶わないのだと思っているあいだ腹のそこに溜まったどろどろもやもやくずくずしたあの気体を諦めや憂いや蔑みに放つとしたら、そのとき、隷属化された喉はやっぱりイライラした音をだすのだとしたら、それって気体のせいなのか、もしくは汚らしい差別意識への反歌でありましょうか。





さくばん頂いた「黒川君にとって『ライブ』ってなんですか?」という大事なメールのことを考えています。




―――シー2ラック&20081228抜粋:4―――――――――――――




帝国エアリアルを見ていて、なんども思ったんです、それは、もしかしたら身体が、ふだんは服に隠れて、服に隠された身体は、ルールとかポリシーとかフィクションとか、あとは、お金とか、嘘とか、タテマエとか、そういうものに、ふだんは、隠されてる身体が、ああやって、ダンスで、言葉に頼らず、前面に出る、強調される、視覚のもっとも手前に、引きずり出されることが、ふだんは隠れている、見えない、感じ取れない、そういう場だとか時とか今の、そのなまなましさ、その本性、みたいなものを、見せてくれるのではないかって印象があったんですよ p121


強いダンス、重たいダンス。
ダンサーが現われれば、ステージはそちらへ傾く。
強い、重たい、そういうダンスをしたダンサーのポジションが窪む。
 <中略> 
「そういえばあの人はダンサーだった、ダンサーとしてステージにいた」と思い出させる。
思い出す。重い、出した、どこへ。
 <中略> 
ダンスを見ながらダンスを忘れる。そんなこともあるなって思った。  p122





動くダンサー動かされているようにも見えるが誰に動かされるダンスなんだろう、動くようなダンス、ダンサーを見ればなんらかの印象が肖像になると思う。  p123


ステージにダンサーが十四人いてダンサーそれぞれに感じ取れる時間が違う、生誕地、境遇、軌跡、ダンサーそれぞれに背景があるだろう、それとこの作品とコスチュームとダンスに関係性ってあるのか整合性ってあるのかトリートされてますか?踊りを意識しているダンサーのヴィジュアルはおおよそ誂えられたものであるはず  p123


ダンサーがダンサーを一人にしない。  p124


仕掛け時計の内部におけるギアやチェーンやラバーバンドのようでもあってダンサーは器具や部品のようにステージをダンスで動いてるんだろうかダンサーそれぞれに与えられた一定のエリアを行き来しているようにも見えるから  p124





ダンサーをずっと見ていると彼らがダンサーでなく彼らとか彼とか彼女とか人に見えてしまうことがある。  p125


Q ダンサーごとそれぞれの衣装だからって、観客は、そこに固有の性格を当てていいのか
Q 筋肉は衣類ではない。だけど、衣類のような筋肉もあるかもしれなくない?  p127


Q 言葉に隠されている、日常に忘れられている「身体」を意図してそれだけを表に押し出すことで「身体」が「しんたい」や「からだ」に変わることがあるとしても、その「しんたい」や「からだ」をよく見てみれば、筋肉や内臓を有し、筋肉や内臓は繊維や細胞から成り、繊維や細胞は…ってどこまでも続いてしまうと思わない?どこかで止めなきゃならない?だとしたら、それって何処で誰がなにを基準に決めるの?
Q ただ、そういえば、現代の都市部に生きるうえでは「言葉や規則や制約や慣習や都市や現代的なインフラ各種にがんじがらめにされてる身体」というワンフーレズから「身体」を取り出し、押し出し、まず「身体」としてだけを確かめなおすことが、大事かもしれない?  p127





Q 「拘束されてる」からこそ繰り出せる打撃、カウンター、カウンターとしての表現について考える、いや、カウンターじゃない表現なんてないのかな
Q ダンサーの衣装がカモフラージュであるとしたら、それは、なにからなにを隠すための企みだったのか  p127


Q 身体、が、からだ、でなくなっている「こと」ではなく、身体、が、からだ、で、「なくなってしまったから感じさせられるようになったストレスがある現代、現在、私」という「こと」や、からだを「回復させたり、意識したり、解き放ったりしたら、苦しさや悩みが、軽くなったり、しんどさに向き合う道筋が見える、時や、人が、ある」という「こと」が確かめられるステージだったのではないか、帝国エアリアルって、という直感をメモしておく  p128


Q 人がもがく、と、もがく人、とでは意味が違うけれど、ひとりのダンサーを見ているちょっとした時間の間だけでも、人がもがく、と、もがく人、が混ざり合った、でもそれぞれの言葉の意味が別れ、離れているように見えるその現われを、どのように描写できるのかを考えず、なにか決まりのような正しさのような文体でもって形式でもって、ステージに見えた動作や時間を、書いてしまっていいのかどうかが気になるところなんだけれど、たとえば、ノートを書いてたとき、一生懸命だったんだろうけど、あなたの感応の軌跡を辿れるように文章があっても、たくさん書いてたくさん考えられていても、そういう文章が作品の「テーマや可能性」を乏しくさせることだってあるのではないか
Q 真剣に書いた文章が、はからずとも、ひとつの教養として、ひとつの見識として、権力になってしまうことを、回避する、どうにか、作品そのものの魅力や可能性を、膨らませる方向に、沿える、役立つ、そのような、ダンスについての文章は、どのような書式に、遂げられるか、ということについて考えながらメモしたのか
  p128




「分かりたいことと分かりなくないことがあるって分かったような気がしているだけでほんとはそんな区別なんか無いとか区別できないのかもしれないじゃない」  p130



(シー2ラック&20081228 ―― 大橋可也&ダンサーズ『帝国、エアリアル』に/黒川直樹)
http://gips.exblog.jp/m2009-04-01/




―――FC東京×鹿島―――――――――――――


1-1のドロー。
東京は開幕戦のあの攻めあぐねたもやもやな感じ?
というか、攻め手に乏しい感じが払拭されてて、
それをやってのけたのはたぶんメンバーの勢いだったかなーという。
まよいのなさ。
いまの東京はゲームコントロールできるプレーヤーが指揮を司どるバラエティは感じさせないが、
それよりも縦へのすばやいエネルギーの放出と充填とのダイナミックな連続と、
そこに意気込みを託す彼らの姿に圧力があって。
ただ鹿島のディフェンスはさすがに鉄板で、なかなかゴール決められず、
「あれ? きょうは寝てんの?」
と思われた瞬間の小笠原がミドルレンジから一閃を放ち、
そのこぼれ弾をコオロキに刺されてしまった。






鹿島からしたら
「勝てなかったが、まー、いきおいあった東京とアウェーでドロー。悪くない」
という心象かしら?
東京にとったら、
「まあアイツら前年ちゃんぷだし今年も充実してる鹿島に負けなくてよかった、
やりようによっては勝てたから悔しさはあるが、
今後に期待の持てるゲームだったんじゃないかな」といったところか。
本人は
「やっと慣れてきた」
と言ってるそうだがこの日ボランチだった徳永はサイドのほうが活きるのでは?
本職のセンターバックが一人入れば今野が中盤に戻れて、
東京みたいなサイドエリアを重視するフットボールなら、
やっぱりそっちのがいい気がするけど、どーなんだろう。
あたらしい試みでプレーヤーやチームのポテンシャルを刺激する狙いなのか?
それとも米本と梶山が戻ってくること想定してのシミュレートか。
東京は重松、鹿島には遠藤と、
それぞれクラブの今後を担うんじゃないかと期待を膨らませる結果と可能性を示す、
わかいプレーヤーが使われていたが、
きょうは輝けず。





「1、2シーズンならこの世界、活躍する連中はたくさんいる。だけど、それを10年以上続けるのが真のプロ。例えば俺は小川(佳純)とのポジション争いに敗れたけど、あいつにもこう言った。『大事なのは(新人王を獲得した)次の年だぞ』って <中略> 」
藤田俊哉