ミスタ、ウォルコット。


(タイトルに『春の祭典』を借りたのは)本書の中心モチーフである<動き(ムーブメント)>を暗示してもいる。自由を求めて懸命に努力した結果、われわれが手にしたのは究極の破壊力であったという遠心的で逆説に満ちた今世紀を見事に象徴するのは、荒々しく、ニヒリスティックなアイロニーに彩られた死の踊りだ。バレエ『春の祭典』は戦争勃発の前年である一九一三年五月にパリで初演された。反逆のエネルギーにあふれ、生贄となる処女の死を通して生を祝福するこの作品は、生を求めようとして数百万もの優れた人々を死なせた二十世紀をまさしく象徴する。この音楽の作曲者ストラヴィンスキーがはじめこの曲につけようとしたタイトルは、<犠牲(ヴイクテイム)>であった――エクスタインズ



「なんていうか……文章……変わってますよね……」
いやいや、ご指摘ありがとうございます、言ってもらえるっていうのはうれしいことです。とはいえ、まあ……メモやスケッチと、ガチで文章を書くことと、どう違うでしょう? 違わなきゃならないでしょうか? 違うほうがいいですか? いいっていうのは、もしそうだとしたら、だれがどこで決めたんでしょうね、という件については前々から気にはなっていて、ええ、でもあまり意識してないですね。肩肘張ったってよくないと思うんです、それが一番ありますね、気がかりです。
「そうですか……いやーね? 黒川さんは小説出したりしてらっしゃるし、これからもやっていくのでしょう? それならば、ああいう飛ばし書きというか……ほんとにこの人まともに書けないんじゃないのか? やっぱりすごく馬鹿なんじゃないかと思われるような……ああ、いえ、私はそんなこと思ってないですよ! ただ、まあ、よくない噂をする人たちもいて……なのでああいう書き方は損をするんじゃないかと……」
んーと、えーと、ああいう書き方、とは? って尋ねたときには、もう相手がなにを言いたいか判っていましたから、それ以上は話が続かないようにする……というのも性に合わないので、ゆっくり聞かせてもらいますけれど、ときどきこういうことがあります、です。



たとえば、
「なんだってわざとでしょ? かっこいいと思ってるんですよね?」
みたいなニュアンスで尋ねられることもあって、機嫌が悪ければ……
そうですねー。かっこいいでしょう? ふふふ
とお答えしながらマジおれ性格悪いなーでもこいつのほうがアレだから、まあいか、みたいな。
でも、きもちに余裕があれば、
「んー……やろうと思ってることに集中しているだけっす。ガチでスウィッシュってカンジで! てか、誰かがやったことをパクってくしかやりようがないんなら、たぶんオレっちは書くことやめちゃうし! そーじゃなくって……なんつったらいーかなー? なんだか読んだことのないものがガチちかくに、いや……ガチとおくかもしんぬーけど、そのうち書き起こせちゃうよーな、うわっ、マジやべー! みたいな? そーしなきゃ! やっぱ書かなきゃ! っていうか……なんかそーいーうーハートがブレイクしちゃいそーなアツイさーーオレっちが、もーそこに立っててこっちこいよ! みたいにカムカムしてる感じがするんス! うわークスリやってるわけでもねーのにガチあがってきた!」



そんなマジな返答のほうが、よっぽど「狙ってる」感じに聞こえてしまうという、この……本音と演技って、いったいなんなんでしょうね。三人称がどうとか、一人称のがいいとか、無人称でいけよとか、もー、そんなことがまっさきに頭に浮かんじゃうよーになったら、おれはきっと小説の話ができなくなってる証だよな。なんだろう。人間がマシンみたいな物言いをしていったいなにが楽しいのか。というフレーズを、ていねいにきっちり文学っぽく書くと、それこそマシンが書いたみたいになる。もう一段あがらなきゃならないのか。クラブで馬鹿みたいに遊んだ経験がない人がクラブミュージックを語るうさんくささみたいなものが苦手だっていう話を、クラブでさんざん遊んだよっていう人が語るっていうのも気色悪くってですね。クラブでさんざん遊んだってなんなんだ、それは。俺は小説を知ってるぜっていうのは、なんなんだ、それは、という。じゃあ紹介してくれますか? 一晩三万円でいいですよ。みたいな。なるほど。北から斡旋してるんですね、やばいですね、さいきん歌舞伎町も静かだけど地下にもぐってるんですね、ネットを使うようになったから出来るんですか? なるほど……じゃあネット世界っていうのは現実世界の地下空間なんですか? みたいな、だから「俺、小説を知ってるぜ」っていうのは、なんか、俺右翼の友達がいるぜ、とか、俺、すげーぜ、兄貴の友達が横川三中の頭だぜ、みたいな。ああ、そっくりじゃん、というところまで演技するとしたら、どれくらいの本音を闘わせる時間が必要なんでしょうね。蛍子、なあ、目えあけろ、にーちゃんお前のためにビー玉を飴みたいにするっていうジョーずな嘘を仕入れてきたんだぞ。なあ。蛍子。にーちゃん、闇市の片目のボスと知り合いやぞ。なあ、おい。おまえの欲しいものなんだって持ってきてやるぞ。



僕は、物語を書きながらテーマを発見していく。書きはじめるときにテーマがわかっていることはまずない。だからこそ、書くことは僕にとってすばらしい冒険でもある。テーマは最初から自分のなかにあって、必要なステップを踏んで仕事をしていく過程で、意識に上ってくるんじゃないかな。執筆の原動力になる物語上のモチーフは、ひとつの口実にすぎないことが多い。物語の柱だと思っていたものが、執筆中に消滅してしまうこともしょっちゅうだ――アルモドバル


「 <中略> 監督はもっと頻繁に会って議論すべきだ。日本人、外国人の区別なく、それぞれが自分の考えを率直に言葉にする。合同セミナーのようなものを開くのもいい。サッカーがどこに向かっているかを議論し、一緒に仕事をしてみるべきだ。そして日本で何が可能かを、真剣に話し合うべきだ」
 <中略> 
「議論が決定的に足りない。個人と意見を交換すれば、そこから進歩が生まれる」

――イヴィチャ・オシム



おそらく“演技”なんかしてたらぶっ壊れてしまうような戦場でやりあってるプロフットボーラーのガチガチの試合をさっきも見てました、という話を、ここから書いていきます。



プレミアリーグ『ウィガン×アーセナル』は、いやー、ほんとに……年に何回かしかお目にかかれないスキャンダラスなゲームでした。しかもジャイアント・キリングのフィナーレだったので興奮も強烈で。アーセナルすごく好きなクラブだけれど、やっぱり下克上に立ち会う戦慄のほうが気持ちよいのは性格でしょう。まあ、二点リードしてからのアーセナルがエンジンを切ってしまって、その隙を逆襲に利用されてしまった感は否めず、しかし「二点リードが危険なスコアだと? 残念ながら、そういった警戒心はフットボール弱小国に特有のコンディションだね。うん。たとえば、わたしが率いていたときのフランスナショナルチームは、二点リード? ああ、それならば確実に勝利できるというスコアだった」とのたまったのはエメ・ジャッケですけれど、いや、アーセナルがあそこで休息に入ったのはそういった優越感や既知感があったというよりも、はしれなくなってしまったように見えました。彼らは、相当くたびれているのではないでしょうか。CLリーグも敗退し、プレミアの優勝もかなり難しい状態で怪我人も多い。モチベーションの維持が難しくなっているのは事実でしょうしね。
しかし、この日だってウォルコットの「音速か?」っていうくらいの抜け出しと高精度のシュートで先制し、しかも後半に入って追加点を挙げたのもアーセナルだったのです。
なので「まさか!」でしたよ、あれからウィガンが三点取るなんて誰が思っていた?
しかもそのうちの二点はロスタイムです……すごい……こんなことが起きるから糞ゲームをどれだけ見せられようとフットボールを見ることがやめられないのだ、とうれしそうに困っている人は世界中にいるのではないかしら。
なにせアーセナルはリーグ三位、ウィガンは降格争いをしているクラブです。
実況者が「どちらが代表クラスの選手かわかりませんねー」とおっしゃっていたけれど、こんなことBSのアナウンサーに珍しいですよ、ほんと。
それくらい、アーセナルは重馬場にくるしむ競走馬のようだったし、ウィガンのプレーヤーはファナティックな運動量でした。降格を争っているっていう精神状態のおぞましさを見た思いというか、ただ、それだけがこの日のアグレッシブをもたらしていたわけじゃないかもしれないし、降格を争ってたってドロップアウトしてく人たちもいるでしょうしね?
だからどうしてこのゲームのウィガンが、後半の深い時間帯から三点も取れたのか……。
これについて本気で考えようとしたら、きっと一冊の本を書くくらいの想像力と調査力が要ります。
こういうことを考えながら五月リリースに向けてフットボールの企画をやっています。



それは、言葉の、聴取の専門であるっていうのはどういうことなのか、ということでもあって。
言葉ではない、表現のプロフェッショナルたちが口々に、言葉を疑い、というか、言葉を生業にしている人たちへの落胆や諦念を聞かせるのは、いったいどういうことなのか……どうして? だってきっとマシンになってしまうくらい、じぶんを殺して、くせを強制して、じかんやせいかつを整形して……そうやって書いているはずでしょう、だれだって。専門としている人ならば。
それなのに、マシンだからでしょうか? 
誰かをがっかりさせたまま、じぶんだけは大丈夫と思っていられるということに、わからなさがあるのです。
と、おれは、ひとりごとのように戒めをつぶやくと、
つい、たっ、と、
「ああ? まあ、いいや、だろ、んなもん。わかんねーやつは置いていく」
という“魔”と、
「馬鹿にすんな。ちゃんとやれ。おめーがやれることを黙ってやれ。ひとりでわかったって、そんなもんは、わかったっていわない。そんなもんは、あってないようなもんだ」
と“魔”でない“ ”がともに黒い翼をハタつかせている。
「お揃いじゃねーか、おい、みてみろよソローキン」と聞こえるのに開かない口は赤く細い舌を忍ばせながら「あんたの謂う中国産のペニスっていうのは、それは、やっぱり毒物入りかよ」と全身の汗腺からだろうか、音がする
みたいな?
これ読んでみてよ。


「この間ストラヴィンスキーに会った。彼は、ぼくの『火の鳥』ぼくの『祭典』と、まるで子供が『ぼくの玩具、ぼくの独楽』というみたいに言う。それがまさに彼なので、ちょうど鼻の穴に指をつっこんで音楽を馬鹿にする甘ったれ小僧と同じだ。彼はまた、けばけばしい色のネクタイをしめ、婦人の手にキスをしながら足を踏みつける野蛮な若者なのだ。年をとったら、耐えがたい人間になるだろう、つまり、どんな音楽も認めなくなるだろう。ただし今のところ、彼は信じがたいほどすばらしい」――ドビュッシー



テキストは音楽じゃない。だが音楽の聞こえるテキストがあって、ただしそれは音楽じゃないので、じゃあそこに聞こえてるのはなんなんだ?
いいや比喩じゃない。奴らはヒルだ。こめかみよりうなじがすきで、あかい跡をのこすことに心血をそそぎ、そそいだ心血のぶんだけふたたびヒトの皮膚にはりつくことが要るというニヒルだ、いいやちがう、ケーヒルか? あそこで得点を狙っているのはオーストラリア代表のケーヒルか?
40年も50年もまえのブンガクに、きみの隣でパンを焼く七色の鎌を奮う巨人の声がしないか。
恋人の背中をかきむしるためだけじゃなくってさ、なあおい、つまった耳のあなに突っ込むことだってできるだろ?
蛍子、そのお前のさ、ながーく伸ばした細長い爪はさ。



ミスタ、ウォルコット
君はフィールドでいうところの音速の貴公子かしら。
数年のうち、完成されたプレーヤーとしての君は、おそらくフットボールシーンにさらなる高速化をもたらすだろう。それはホナウジーニョでもC・ホナウドでもリオネルでもなく、君が託されている死神の役回りである。そのとき勘の鈍いMFは置き去りにされるだろう。硬くてデカいDFは一掃されるだろう。
ただ、君が音のようにピッチを駆け抜け、速度のようなシュートをゴールに流し込み、超現代的なメカニズムを肉体という有機にフィットさせていくとしても、ひとつ思いよぎることがあるのだあれはフォーミュラ史上に頂点をなすといわれた天才が、こどものようなミスでコーナーに果てたのと同じような、なんだろうな、その速さゆえに、誰にもつかまえられない終わりを遂げてしまうということはウォルコット、君はどこで君がためのファンファーレを浴びるのか。



『気高い幻想』では、望まれるままに踊り、跳躍すべきところで飛び跳ね、私自身の旋回の渦の中で迷ってしまいそうになっていたある日のことだった、私たちの一座で、問題だらけで騒動を巻き起こしたストラヴィンスキーの『春の祭典』をもう一度やってみようという話が持ち上がったのだ。この曲は、既にあらゆるところで演奏されるようにはなっていたけれども、バレエとしては、初演の際のバレエ・リュス=ダルクローズ式の馬鹿らしい振り付けの記憶や、本当を言えばそれよりさほど優れているわけではない、一九二〇年のマシーンのあまりにも図式的な解釈によって、相変わらず失敗作であり続けているのだった。それはまだ果たされざるバレエなのだ。 <中略> この作品を舞台に掛けるには、ホルンが八本に堂々たる打楽器の数々が必要なので、臨時に楽士を雇ってオーケストラを大編成にしなければならないという難点がある。一方で『春の祭典』は、入場券の売り上げは見込める演目だった。 <中略――(ディアギレフの時代から私たちは <中略> 成功と破綻、グランド・フィナーレと質屋、豪勢な晩餐と四人で二つのサンドウィッチを分け合う食事の間を行き来することに慣れていた……)> 私たちはグループに分かれて各場の練習に入った。『春の兆し』や『誘拐』、『敵の都の人々の戯れ』、『賢人の行列』、『乙女たちの神秘的な集い』、『生け贄の賛美』、『祖先の呼び出し』の各場は、まったく新しい群舞の規律のもとに統制された集団の動き、突然の跳躍、身振りのコントラストを要求するものだった。 <中略> ストラヴィンスキーの驚天動地の音楽は、私たちを最終場の『生け贄の踊り』へと導くのだが、そこではオーケストラは分裂を見せ、伝統的なその機能を破壊し、周期的なアクセントなどといったものとはまったく無縁な新たな韻律を産み出す。一つ一つの音はその原初機能において見てみると――ここで楽器は、木材、銅、ガット、張られた皮に姿を変える。原初の条件へ、民族の儀式におけるその役割へと戻されるのだ――、期待や希望、押しとどめられた暴力、もしくは発散された暴力の高鳴りによって特徴づけられた、大地の大いなる鼓動を表現している。神々を鎮める悲痛な儀式において撒かれた<選ばれし処女>の血の下には、新たなる年――栄養の新たなる周期――の生まれ来る太陽の前に、その内臓を取り出し、おのれの表面で生き、子孫を残し、死んで行きつつ、おのれを崇める人々に滋養分を提供する<地>が横たわっているのだろう。そしてこの<地>がこの新しい年にそれを崇める者たちにとって実り多きものであるよう、それに先立つ数多くの年よりも良すぎもしなければ悪すぎもしないよう、今の人々は昨日の人々とすべての点において同様の仕方で、乙女を生け贄に捧げる――「もうひとりの乙女」と行列の<賢人>は、あるいは考えたかも知れない、彼はその永い人生において、いつも同じような春の日に、数多くの乙女を捧げてきた、何世代にもわたる人々の足取りの生き証人であったのであれば。 <中略> ……ステップを刻みながら今日の<選ばれし処女>に近づく私は(反復される変拍子に断片の妙を閉じ込めたこの3/16、2/16、3/16、2/8拍子のリズムを取ることの難しさ!>彼女に死に行く者を見ることはない。そうではなくて私が見るのは、生きながらの死を苦しみ、おのれを嘆きつつ死を引き受け、声を上げてそれを泣き、声を殺してそれを泣く者 <中略> 実のところ人は<歴史>以前の歴史なき時間からやって来た古い概念に再び戻りつつあったのだ。私にとっては唐突とも思える仕方で、私がそこから逃れていることができると思っていた、この時代の歴史――私はこの歴史とは無縁であろうと思ったのだが、歴史の方から私に近づいてきた。 <中略> 昔ながらの概念に……私は『生け贄の踊り』のステップを続けているのだが、フルートの半音階によって奇妙にももたらされた最後の和音が鳴り終えたとき、ここから第二のバレエが、これまで書かれたことはないし、おそらく今後決して書かれることのない第二のバレエが可能なのではないかと考える。神々が生け贄では事足れりとせず、もっと要求してくるというものだ。しかし下界の人々は、その種播く仕事を刻苦勉励成し遂げたと思いこみ、雲や飛び立つ鳥、今まさに消えんとする冬の最後の火の中で、苛立ったようにパチパチと音を立てて飛び散る薪などの形を取った神秘的な知らせ、宣告を解読できない。すると空は、地平線から地平線まで危険な青色を呈し、旱魃が訪れ、地面はひび割れ、期待された収穫は得られず、果物の房は萎びて葡萄の蔓ほどになり、木々はあまりにも貧弱な影しか与えきれなくなり、ついにはそこに不幸の陰がさすだろう。語ることをやめた泉や芳香を引っ込めた松の木、その背を丸めてしまった山の頑丈にして荘厳な岩は、今ではそれを見る者に背を向け、泣いているかのようだ。緑は黄色になり、地面は身をもたげ、竈の熱気を含んだ、人の心に暴力や恍惚を巻き起こす悪しき風の立てた埃の中を逃げ去っていく。 <中略> 長い年月の流れによってすっかり曇った目をした<賢人>は、かつても同じだったと言う。旱魃でなければ洪水であったと。 <中略> 春に捧げられた<選ばれし処女>のことも今では忘れ、青年たち、種播く人々、刈り入れる人々、身重の女たち、多くを憶えている老人たちに、おのが内なる世界に埋没した占い師たちは、<夏の神々>を宥めるために新たに血を撒かねばならないと、というのも神々はおそらくは、その折りになると贈り物や供え物を大量に受け取る<春の神々>を妬んでいるのだろうからと言う。それから秋の踊りと冬の夢がやって来るだろうし、その夜長に女たちは身篭るのだろう。次には『兆し』が、そして樅の木々の根元の最後の根雪の向こうからは、夏の萌芽が顔を覗かせるだろう。そのとき人々は、<春>の出産に便宜をはかるにはまた生け贄が必要だと考えるだろう。 <中略> ……もう一つのバレエの補遺であり、それゆれ、実際に終わる事なきバレエになってしまったこの空想上のバレエを私が中断したのは、ある朝、突然に抑圧と憔悴から解き放たれ、反抗的で頑固になった自分を感じたからだ。私たちはモンテ・カルロでの公演を終え、今ではパリで『春の祭典』のリハーサルを続けているところではあるのだ――カルペンティエル



ウォルコット


君がもしバロンドールのような栄誉に映えるのだとしても、ねがわくば、君自身が音速でフィールドから去ってしまわぬよう、おもいだそう、ジダンがその両の踵にふくらませたデモーニッシュな磁石にシザースを踊り……バッジオが杯を交わしたクロノスの祝福でもってパラレルワールドに胸トラップを弾ませ……竜宮の天女とネプチューンとの愛の子だったルイ・コスタが魔法に濡れた地中海の長髪の靡きでスルーパスをかどわかし続けたような……そんな……おどろくべき速度で現代化を極めていくフットボールの魅力と対を成す……そうだ、よく見ればよく聴けばよく探れば君にも感じられるだろう? そんな速度とコントラストをつくる、エロティックなペルソナに、禁忌にふれてしまうような原始性に、君がまどろむことを心から期待している。


小説というのは、すでに存在してるものの(ぼくの生涯だとか)を再編成したようなもの。実在の人物を登場させるか、人物や都市やなにもかもを全部再構成するか、もしくはプルーストがやったように何十何百もの人間を小説の中で合成するとか。『めくるめく世界』にせよぼくのほかの作品にせよ、どれも若干は再構成の要素があります。でも、実在の人物や時代のディティールに忠実であろうとはしない。カルペンティエルの『光の世紀』を読んで苛立ったのは、彼が時代の語彙を使うことに無自覚であるように思えたからでした。カルペンティエルの小説では人物が、いつもあまりにも緊密に歴史と関係づけられ身動きが取れなくなってしまう瞬間がおとずれてしまうのも当然の成り行きです。何か身動きするために、その一歩の歴史的含意を述べるんですから。また、ああいった言葉の使用は、該博な知識に裏付けられた辞典学上の偉業に見えてしまう。それは創造的な想像力とは関係がない、貧しい言葉の使い方のように、ぼくには思えるのです――アレナス


言い換えれば……ソローキン?


あなたがとこしえに埋め立てたペニスをうれしそうに撫でるジャパニーズは、ひどく照れくさそうにフットボールしているということ――








シー2ラック&20081228抜粋――――――――――――――――


「帝国、エアリアル」のステージにおいて十四人のダンサーがそれぞれの軌跡を描き <中略> ダンサーの印象があたらしくなってあたらしくなったダンサーの印象はダンスにこれまでになかった印象をもたらすという時間や動作や意味に、隠されていたものが現われる  p133


ダンサーとダンス、今が過去をあたらしくする、今があたらしい未来を予感させる、なんてダイナミック今がここにあるのだろうと息苦しくなったりして  p133


ダンサーの線はダンスの内部にあるだけでなく、ある瞬間にはダンスの図を突き抜ける。
上方に、下方に、前方に、後方に、未来に、過去に、であろう、予感、到達、そして反射してきた線は、なにかにぶつかったことを知らせ、外側に壁のようなもの、跳ね返りをさせる壁のようなものがそこにあることを教える。
突き抜けた線が反射によって帰ってきただけでなくこんどは目の前を逆に走っていってしまう。
そちらから戻ってこない、それは、外側の壁のようなものが、そちら側にはなかったか、もしくは、なにかが線を吸い込んだか。
ステージは地だった地面だった作品の中央に作品の根底に水平であった、けれど、そうじゃないかもしれないと思ったりする、撥ねて飛んで着く土台としてそこにあるので作品の基礎のように見えるけれどその下というか地面のしたに何かあるのかもしれないと想像することも大切かもしれない。
今ではステージは地であり水平であるはずだったのにダンサーの軌跡が突き抜けて反射してくる一閃が串刺しにするステージに、ダンスするダンサーは時をとめれば彫像のように見えるかもしれないな、そのときステージは、四方八方から鉄棒に刺し抜かれた礎石のように見えるかもしれない。  p134


ダンサーは汗をかいている、かかされた汗かもしれない、それをぬぐう、予定されていなかった人としての身振り、見えた、そのタイミングにダンサーはダンサーでなく、ダンスはダンスでないのかもしれない、  p134






(シー2ラック&20081228 ―― 大橋可也&ダンサーズ『帝国、エアリアル』に/黒川直樹)
http://gips.exblog.jp/m2009-04-01/