日本サッカー後援会のタニマチになりました。



この一ヶ月。フットデカで本格的に原稿をやりだしたこともあって、毒を交えてフットボールレビューみたいなものをブログにアップしてきましたが、むかしのように小平グラウンドにFC東京のトレーニング見に行くわけでもなく、スカパーやフットボール雑誌にお金を使ってるわけでもなく、やっぱり書けば書くほど「おいおい。テレビ見てるだけだろ? そんなんでよーいえるのーわれー」というひとり突っ込みのボリュームが耳に障るようになってきていたんですが、マジで後援会に投資しました。
なのでこれからは特に日本サッカー協会に思う存分言いたいことを言ってやります! というのも筋違いだなと。



(どうか快復を)


むかし映画監督の井筒さんが自腹切って映画を見に行って悪口を言うという番組があった。自腹を切ってるんだから何いってもいいじゃろ? という強弁が聞こえた。しかし本来は(?)「自腹を切ったんだから何でも言わせてもらうぜ」の相手っていうのは映画会社とか映画監督とか出演俳優であって、テレビを窓口に視聴者に向けて何千万人に愚痴るってそれぜんぜんひどくない? 釣り合ってなくない? という思い出がよみがえってきた。



ところで投資した金はどこに使われるんだ。
ここで「子供たちのために使ってくださいね♪」とか言えば好感度UPかもしれないが嘘はつけんよ。
うちからすぐのところにあるらしい「サッカー協会本部の建物」がひどい(無駄に凄い)という話も聞くが、そういうがっかり系に注がれるのはきついな。年間費1万5千円。おれにとっては大金です。なんに使われるんだろう、ほんとに考えてなかった。返して欲しい。いや、それは嘘です。
ちゅーか使い道もわかってないのになんで払ったの? バリゾーゴンへのエクスキューズが欲しかったん? 思いのタケに対してブッチをマッケマッケしまくると、なんだか軽犯罪をかましたような罪の意識に苛まれるのでしんどかったんでしょ?
いや、それらも動機としてあったっすけど。
そういうことっていうよりか、天皇杯高円宮杯Lリーグや大学選手権なんかがフリーパスになるからです。(ちょっとした条件はあります。天皇杯ファイナルは見れない、とか)
この特典……まじいいの? 太っ腹すぎないか? びっくりでした。



おきてテレビつけて昨晩のゲームの録画を再生しながら朝飯(夕方だったけど)を食ってから別の録画を再生しながら早めのウイスキーをやってるあいだにスカパーで始まるLIVE放送を見ながら三杯目くらいのウイスキーをロックでやらかすっていうフットボール“廃”ライフから脱皮して早6、7年……稼ぎもないのに日本サッカー協会のタニマチやったりフットボール本の執筆やデザインを眠る時間削ってまで務めることになるなんて、ほんとに先々なんてわかんないスネークねー。
「アンタもうそれ以上部屋にモノを増やすんじゃない!」と家族に非難されまくりつつ撮り溜めて、しかも棄てずに実家におかせてもらってた数百本のフットボールビデオが今じゃ宝の山です。エクスは在庫の山だけど。それもまた宝のようなもんなんですけれどなあ。いやー今日も東京はいい天気でしたね。
ちょっと雨だったな。


フットデカについてはあらためてちゃんと書きます。
文フリの「エクス・スペシャル」についても。
(あ、新刊じゃないんです。誤解させちゃってたらスミマセン)



それでは本日の本題へ。




(Design / Naoki Kurokawa)



5/14-5/16の大橋可也&ダンサーズ『春の祭典』(@三軒茶屋シアタートラム)の物販コーナーに、『ある夜のエクス』が出品されます。上のPOPが目印です。お立ち寄りくださいませ。
(『春の祭典』鼎談の紹介&黒川直樹『春の祭典』ブログ用リード掲載>>>妄想劇場エントリー)



虹釜さんが書いてくれてたように(フットデカについては追って詳細をエントリーします。おもしろい本、おもしろいシリーズになってきてるので「フットボール? サッカー? なに読んだって同じジャン……ネットで充分だ……ていうかフットボール興味ねーな!」という方にも楽しんでいただけるのではないかと。虹さんの原稿ヤバイっす)予想通りぜんぜん売れないので在庫の山がすごい「ある夜のエクス」ですが、5/23の文フリに「凄い……」特典つきで出品することもありますし、ここでブーストをあげていこうと。
本日は(5/14)大橋可也&ダンサーズ『春の祭典』公演が幕をあけ、物販コーナーに『ある夜のエクス』を並べてもらいます。販売担当者さまに向けて一筆書いたのですが、このリリースには「おお、そうだったのか……」と黒川の「ある夜のエクス」モチベーションが現われてると思いました。ここに転載を。
とはいってもこの一文はモチベーションの一端なのです……一端じゃなくて全端なんていう言葉があるのかどうかわからないというところまでモチベに関して書くとなると膨大で、しかも書き接ぐにつれて広がってしまうのでいつまでも書ききれないよな説明しきれないよなが本当です、本音です、正体です、本性です! この性悪女! ちくしょう! いつまで黒くやわい蛇皮の帽子かぶってやがる! そのぼろぼろのくせにやけに艶のある細くて長く奥ゆかしい帚はなんなんだ! 森の野獣みな一斉に蜂起せよ! そして一声を! そして一声を! そして一声を! と信頼する大兄に話したところ「じゃあそうか、黒川君はこれからも書いていかなきゃですね、いろいろやれることが残ってるから生きてなきゃってことだよね」と励ましをいただいたのは、いついついつのついこないだ ――




物販コーナー 担当者さまへ


ALTAのミラーと、夜のマネキンを361体ください。エクステンションはMPEGで。
こと、「ある夜のエクス」について。



ページをめくっていただければ一目瞭然ですが、「ある夜のエクス」はレイアウトや写真によって複合的な構造になっています。これは読み手の心象におけるプリズム効果を期待したものです。でもそれだけではなくて、どちらかというと「記憶」および「記憶の有様」をトレースしていった結果、必然的に生じたフォームかなと思います。


全編は、一人称で書いた章と、詩的で映画的なチャプターが交錯します。
語り部としての主人公は一応登場するのですが、劇中に「彼or 彼女」は自分自身を一度も名指ししません。なので性別も年齢も明らかにならないのです。読感はゴーストが追憶するデジャビュ、もしくは白昼夢 ―― 人によったら悪夢を思うかもしれません。
また、この作品はときに、文意より色調を、描写でなく音感を重んじます。ある人は「青の時代のピカソみたい」であると、またある人は「サウンド・アート……それもドローンミュージックのような」と話してくれました。勘の利く友人は「どこから読んでもいい本だね」と愉しんでくれてました。


批評家の佐々木敦氏は『春の祭典』鼎談で、大橋可也& ダンサーズに「2010 年代(テン年代)」を代表するカンパニーになる予感がある」という言葉を寄せました。その理由の一つは、大橋可也& ダンサーズの、「からだ/ ダンス」を通して、綿密に繊細に、心理や現代の活写を行っていく筋の通った姿勢こそ、とらえがたい「生/ 性」を浮かび上げる説得力に満ちているからだそうです。「困窮に喘ぐ日本において、パフォーマンスの希望がここに見える。鬱屈と停滞のゼロ年代を払拭して欲しい」と。


黒川は、大橋可也& ダンサーズが「からだ」で行っていることを、「言葉」をはじめ、物語、写真、デザイン、タイポグラフィ、レイアウト……にモチーフをとった小説作品で模索している気がします。この点においても、大橋可也& ダンサーズにシンパシーを感じ取り、エールを頂戴しています。


甘く優しく分り易い商品ばかりでなく、なにかこれまでになかったような刺激を感じられるものや、自分にフィットする作品や作家を自力で探し、選びながら生きている人が、この本を手にとってくれたらなによりです。


春の祭典』楽しみにしています。




2010 5/11 黒川直樹



―――『春の祭典』観劇メモ―――――――――――――











満席の会場で80分はあっというま。
痺れる瞬間がなんどもあった。しかし持続はない。
断続でもない。
ではなんだったのか?
書き留めておけるのは景色もふくめて想念だけだ。
それはおそらく「書き留めておけなかったこと」のメモだ。
では踊りはどうなのか。
「踊りきれなないこと、踊りからあぶれてしまうこと」
を見に行くというのは意地悪なんだろうか。
「あぶれてしまうものはなんなのかを確かめるために(見る、見せる、人と人の中間に置くために)」
踊られる踊りもあるのではないのか。
春の祭典「綺麗な(ちゃんとした)録音」にノイズがかぶされる。
すると途端に時間(歴史)みたいなものが鼓膜にザラつく。
あれはなんだったのか?





(Illust / Naoki Kurokawa)