小屋敷さん&友兼さんとの語らいアフター。“言葉”の雑感……

さまざまな“祭典”(W杯とか歴史的な演説とか宗教儀式とか戦争とかオリンピックとか)に「居たり参加したり動いたり」してる人の姿勢をトレースした、そういうムーブやポーズがチラと見える瞬間がある。後半のエキストラにつけられた、ひとりひとり違う(30人以上いるのに!)決めポーズは、なんだかギリシャ彫刻のようであったり。

ぜんぶで40人以上になる出演者に衣装があてられていて、ロッカワークス仕事すごい大変だったろうな……と思って見ている。しかも彼女たちは、ダンサー一人づつに性格だけじゃなく生活環境までをイメージして、それで東京を駆け回って服を探すらしいので、どんだけの労力だったのかと。イメージに合っても破れやすい服はだめだし、公演が一回終わると補修をしてクリーニングをするというし……。
(※エキストラの服は、衣装さんの立会いのもと、それぞれの私物をいくつかフィッティングの後、決定されたそうです。一人一人のキャラクターとライフスタイルについては全部イメージ作ってノート作ってたそうなので。すごいです……)

大橋可也&ダンサーズは『BLACK SWAN』から、ほとんどの公演を見てきた。彼らの踊りには自傷や嘔吐など、現代的なトラウマ(神経症心身症、メンタルの難しさ、その諸症状)が見えるとよく言われるけれど、おれはそういう感じはぜんぜんしなかった。でも『春の祭典』は……昨日、一昨日と見て、こころがめっちゃ重たい。見てるだけでこうなんだからダンサーはどんだけ疲労していることだろう。いや、ダンサーは踊りに集中しているのだから肉体的なくたびれのほうが辛いか。無事に楽日がむすばれますように。

客席に、くすくす笑いを続けた一組、いや、どういう感情になって、どんな反応を見せるかは、ひとそれぞれ、ひとそれぞれでいいことだ。でも、おそらくこの作品は……という予測、それと、開演前の会話も聞こえていた、あなたたちは大橋可也&ダンサーズを何度も見ているのでしょう。しかも、この作品が人を笑わせるためのものではないことも分かっていたはずだ。お客だってそういう方向性の作品を見に来てはいない。もろもろ分かっている上で「くすくす」を隠さないというのは、あまり行儀のいいことじゃないように思うが、ゲラゲラは無理かもしんないけど「くすくす」は隠せるように思うけれど、あなたたちはそうじゃなかったか。おれは幼いころ親身になってくれた人の何人かから、漏らすまえにちゃんとトイレにいきなさいね、と教えてもらえたが。あなたたちには不幸な生い立ちがあったんだろうか。ならば同情するし、トイレならロビーの左手にある。



NO IS?
“ノイズ”を言わせるのは“ノイズでない音”。
だってなにがノイズでなにがノイズじゃないかなんてわかんないじゃん。
「ただ、目安としての音域はあるんです。それも時代で変わるんだけど」
なるほど、それはすごく気になります。



センスとか才能ってなんなんだ。
「直感で進むっていうけれど、あらかじめあるものに導かれるみたいな感覚」
そうそう新巻鮭の悲哀。
なんて襤褸になっちゃった鱗かよ。
「じなゃきゃ“あ、こっちだ、こっちに作っていけばいいんだ”ってわかるっておかしいよね?」



きのうの終わりの声とちょっと違った。
兵隊の号令みたいだったけれど、きょうは合図だった。
皆木さんのパンツにツギがみえた。
きっとみんな服の下には痣があるんだろう。



ドラムス+アクセルでサウンドをやるためにHIKOさんが暴走族を募集している。
元ヤンでもよいらしい。剛打されるドラムと直缶のマフラー。考えるだけで凄い音がする。
WEB DICEに出てた写真でHIKOさんの肉体を見て、背筋が真っ直ぐになった。
殴られたら顔だけへんなところに転がっていくなと思った。



小屋敷さんも友兼さんも作業しているときは音をかけないらしい。
楽家の小屋敷さんには「本を読むときはどうか、
音を作るときに映像を流したりはしませんか」と伺ったら、
どちらもしないです、どれだけ音に近づいていけるかに集中するっておっしゃっていた。
(黒川は、音が聴けないコンディションじゃなければ、デザインするときは必ず、書き物のときもだいたいなにかかけてます)
どれだけ技術が発達してよい音響装置が生まれても、
あたまの中で鳴っている音がもっともいい音なのではということも教わった。
この「あたまの中で鳴る音」という言葉の「意味」ならおれにもわかるけど、
楽家やミュージシャンとじゃ、頭脳に鳴る音の強度(密度や解像度や濃度……)が違うだろうな。
小屋敷さんは「一曲まるまるをほぼ再現(脳内で再生)できますよ」と。
おれもやってみれば「再現できる」かもしれないが、ぜんぜん違うものだろう、
だから「再生、再現」っていっても、なんか外国語? 翻訳しなきゃな、みたいに思う。
同じことを言ってるんだけど、同じことじゃない。
このこと、このことをどう言うか……



踊りにもおなじようなことがあろう。
「脳内で、再生や再現」みたい話で、
言いたいこと(示したい出来事や事象)によっては、
伝わるかな? 伝わることもあるかなと思う。
たとえば「頭のなかでメロディを浮かべることはできるよね」みたいなのは、
そうそう、それはそうだね、で済む。
しかし、このメロディがいかにどのように鳴っているか、
もしコンポジションならどんな重なりでどんな音と音の強弱でとか、
その長短は? 解析度は? 明度は? どうなのか。
いま挙げたちょっとの項目だけですら、
ひとつひとつにギャップがあったら「鳴る音」は別ものだし、
別物っていうか、ここが違うんなら、もうなんか、なんか……
いや、なんだろう。
「見てるもの、見せているもの、見に行ったもの、見に来てもらったもの……」
春の祭典』でも目の前で踊りが繰り広げられるわけだけど、
それをどうにか「見て帰ろう」と思うけど、
どこまで、なにを見ていられてるのか。
いや、持ち帰ろう、目撃しよう、注目しているよ、
という前がかりの姿勢があれば充分なんだよっていうのはわかってる。
だけどおれは物書きだし、なんとか、この、
目前に広がってる可能性の、その可能性の、可能性の……
どうにか、その可能性のむこう、むこう? んー、、、、
汲み取るっていうんじゃ、また違うんだよな、
とにかく「なんか喋る」と、スパッと切ったり分かれたりして、
それは人によったら気持ちいことなのかもしれないが、
おれは苦手なんだ、それで、でも書きながらじゃないと見れないので、
メモしたりする、人とも話す、しかしそうすることによって常にざらざらしたもんが残り、
しかしこの「ざらざら」は「ノイズですか?」というと、
そうじゃない。そうじゃないなーっていうのは冒頭に書いた、
ノイズって、ノイズじゃないって音があるからそう言えるんで、
じゃあノイズってなに? って思うし。
ざらざら、このざらざら、なんなんだ。
いや、だからそういう話もありつつ、話すと可能性が薄まる、
なんか消えてしまったり、あれ? これで終わり? 違うよね?
という、終わりとして片付けたら駄目でしょっていう、
いつもそういう声がする。
しかも「喋ったらそうなる」っていうだけじゃなくて、
さっきから書いてるみたいに、
おなじ言葉使ってみてもぜんぜん違う話をしてるんだよね、
ということに気づいてしまうとき、
そこからじゃあ、どうやって、なにをどう言えるのか。
しかも共感だとかシンパシーだとか啓蒙にはほとんど興味が無い。
されることにもすることにも、どっちにもだ。
しかし毎日なにか書いている。
ほとんど興味がないなんて嘘なのか?



書き物をし続けているとあるていど言葉を「あてはめたり削ったり」に慣れていくが、
この「あてはめたり削ったり」をさせる基準のようなものは、
書き物や読み物の練度に培われるところでもあるので、
土壌が育てば育つほど(いや、上昇やクオリティが富むっていう意味じゃない、菌が多いとか)あ、それこそ、
解像度があがったりってことだ、強度、言葉の強度っていうよりも、
言葉を操る(?)操らせる(?)ことをさせる、その、神経というか技術というか体系の精度みたいなもの……
そこがどんどん「変化」(←上昇ってニュアンスを避けた)していくと、
そもそも「あてはめたり削ったり」っていうのは「じぶんなりにすんなりいく落としどころ」に、
従う、素直になる、届く、近づく、ためであり、
もうひとつやっぱり、誰かに読ませるための書き物であるならば、
「できればこの並び、この文章、この流れ、このセンテンス、この文意、この単語と単語のかけあわせ、ひきざん、たしざん、乗算……」
で「読んでほしい」という「希望」や「依頼」の念に編まれるもんだろう、
「あてはめたり削ったり」っていうのはそういうためにされる。
にも関わらず、言葉の系、言語の土壌、書き物の体験が重なっていくにつれ、
独自の体系やシステムが発達してしまうことで(マニエリスム?)
どんどん「伝わらなくなっていってしまう」ということに、どう向き合うのか。



この「どんどん「伝わらなくなっていってしまう」」をどう説明したらいいか。
「ある夜のエクス」について小屋敷さんに、
『「●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●のコップはテーブルになかった」
のように、ただ「それがない」ということだけ書いたりしてるでしょう? ああいう文は、ふつーの小説ならなくていいセンテンスですよね』
と言われて、じぶんでも忘れてたので大笑いしたんだけど、ほんとに黒川バカなんじゃないかと(笑)
なくていいセンテンスがあるなーと思ってもらえたらもう充分で。だからうれしかった。
ここに文意があるとしたら、「ある」とか「肯定」とか「認識」ばっかりが書かれてくことが当たり前になってる「小説」だとか「技法とか常識」みたいなものに違和感があったこととか、
(「……というコップがあった。」という文に編まれていく小説ばっかり。もちろん人称や話者を立てる、それは世界を見ることで、世界を見るってことが話者や人称……ひいては小説の構造を担保(?)しているっていう理屈を知らないわけじゃない)
もうひとつは、というコップなんかなかっよ、とあえて書くことで、つぎにそのコップを登場させるなり、かわった使い方としてやってみるとか、キーになる比喩としてもちいるとか、そういうことをやると、ダブルイメージが生じる。というこれはまあ技術的なことなんで、読むだけならそんなことどうだっていい。ただ、さっきなかったって言われてたコップがここに出てきたんだな、という読感と、そういう「なかった」的な文章がなくて、キーになるところで文学の技法的な比喩を託した一文の印象では、かなり違ってるはずということを信じながら(やっぱりおれだって読者を想定してるんだな)いろいろ書いたりはしてる。でもそれは理屈で解釈して欲しいじゃないというか、理屈で解釈されためんどくさい。だから、あれ? という感触から、ある言葉が上書きされたり、レースとレースの重ね着のように、意味や言葉がいつかみた夢のようにおぼろげになってほしいとかは思ってるかもしれない。そういう読み物であってくれたらいい。書けば書くほど明瞭になっていったり、読めば読むほど明晰さが明らかになっていく記述のほとんどは嘘臭いし厭き厭きしている。
黒川がいま感じてる“言葉の面白さ(難しさ)”の一つはここです。「……はなかった」的な表現は音楽や映画じゃ難しいのではないかと。もっと詳しくなったら違うことがいえるかもしれないけど、音は(鳴る・ならない・する・しない)で、映画なら(写っている・写っていない)から始めるしかない? 無音を使うとか、映像をブラックアウトさせるとか、でもそれと、おもむろに「飲み口の欠けた赤い陶器はなかった」と一文挿すこととではぜんぜん違う。この一文が生じさせることのできる景色や感触みたいなものって言葉独特で、ここにいろいろやりようがあるんでは? と。
こういうモチベーションだとか気概なんかが「原理・原則・源泉」としておれにはある。これが、さっき書いてた「土壌とか経験とか技術の体積とか言語の系」だ。(というだけじゃないんだけど)で、これがある人とない人、なんとなくわかる人とぜんぜん意味わかんない人がいて、それはそれでいいんだけど、或る人とない人とじゃ、やっぱり違ってくるだろうと。
それで、だから「違うよね、哀しいよね」ってことじゃなくて、この、言葉を書かせるもっともエネルギーやモチベーションの溜まってるところんの質を変化させていくためにやってる(楽しみとか習慣とかでもあるが)行いが、書いたり読んだり、であって、続けてると変化してく。変化・変容・変質してく、そうなると……


あーくたびれてきたから気が向いたらまた続けます。


「“うた”があるかどうか」
友兼さんと一緒に、あーーそうかーーーーと、うなづく。