@BLDgallery 中平卓馬写真展 「Documentary」



むかーし阿佐ヶ谷デニーズでTくんに教わった
「中平さんについて、写真論、図鑑的であること、撮ろうとする態度とは? 獲ろうと、盗ろうと、徒労と……」
などを懐古しながら中平さんの撮った図を見て周る。


一枚のサイズはA4くらいだったか。
コの字型の壁3面に架けられ、っていうかパネルに直貼りされ、たぶん総数は150枚ちょい。


なにってレイアウトが気になった。


地面から150cmくらいの高さに上下2行で
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
こんな感じに並べられていた。


ブログに書くと隙が空いてしまうけれど、
フレームや額に入れられない剥き出しの写真は、
一枚一枚が上下左右に隙なく、
びっちり敷き詰められている。
太い帯のようにも見えるイメージの羅列。


それが上下2行で並べられ、
それぞれの写真はくっ付けられていて
距離を取って眺めれば
まるでパノラマのように水平で


水平はフィルムの流れ
フィルムの形状、フィルムが記憶する形状
フィルムの記憶的形状
記憶媒体としてのフィルムの流れ
フィルムの記憶は水平の媒体
水平はフィルムの記憶


写真フィルムとは、カメラに装着されると、
ひとつのシャッターごとに一コマづつフィルムを横送りし、
水平に光と闇を定着させる記録媒体だ。


それは光と闇を定着させる水平的な記録媒体だ。


カメラは記憶を水平に記録していく装置だ。
カメラは記憶を水平に記録していく器械だ。
カメラは記憶を水平に記録していく機会だ。


(縦に回るフィルムの場合はどうなのか?)


カメラの内部に、水平に装着される写真フィルムは、横の流れに「風景/記憶」を焼き付ける。
写真フィルムはカメラの内部に水平に装着されると、横の流れに「風景/記憶」を焼き付けていく。


だが、それだけじゃなかろう


カメラの現実感、
あるいは
撮り手の現実感?


いや、現実とはなんだ


心の有様、
目の前の風景
声や音の聞こえ
想像や捏造や着想
幻想に空想に深層


撮り手の「現実」と言っても
その「現実」とは
どこに指される拡がり(竦み)か



カメラに仕舞われたフィルムは
シャッターを押されれば
なにかを取り込む(焼き付ける?)
それは光と影のコントラスト
「1枚」に区切られ
感光されるのを待っている
水平状の記録


BLDの展示のどこまでが、中平さんの指示によるものだったか。
彼が、あの写真のレイアウトにNGを出さなかったから開催された、それはわかる。
それで、中平さんはあの並びにどのような「現実感」を託したんだろう。


たとえば、
「フィルム」の流れ、ベクトル、形状
(リニア)
(という記憶媒体、記録物、助手? パートナー、人ではないが心の通じ合う何物か)
一定のリズムと流れ
上下2枚の並びは二元論のメタファーか?
意識と無意識、


そういう見栄でもって
「メタ」が表出されるけれど


観覧していくと
対立項に相似しているように見える、
あの作品の並び、
並べられた写真に喚起される
おれの「現実観」や「臨場感」の形、
「思いだしている」と感じる
その最中にある、おれの、記憶の形
記憶の形?
というよりも、記憶や体験が、
どのように脳に(?)保存され、
取り出され、放映(放送、上映、想起……)されているのかについて、
示唆に富む、
2行の、レイアウト、A4サイズの写真の、並べられ方


写真に切りとられた体験や風景が、
帯状に連なってコマ送りされるような感覚(観覧)に
中平さんが、かつて、大病を患い、
記憶の大半を失い、いまも、60年代にあったような、
激しく、鋭く、細やかな言葉の人ではないと、
伝え聞く、その人となりについて思い出し、


中平さんの現実感とは、どのようなものなのか、


いつだったか、どこかのTVチャンネルで
カメラを片手に、黙々と歩き、
ときおり西部劇に出てくるガンマンの早撃ちみたいに、
人や、物を、撮り抜く(盗く)姿を見た


テレビに写された風貌は、
「たたもんじゃない感」
がハンパなく漂っていたけれど、
ほとんど喋ることなく、
むずかしい顔も、こわがらせる言葉もなし、
たんたんと、カメラを放ち、シャッターを抜く
そういった「記憶を失ってから」と呼ばれる
中平卓馬のフォーム(ホーム)だった


彼の、
その、記憶の形状について
思う
思わせる、
思われる、
BLDの壁3面に貼られた写真、
繋ぎ合わされた、
2行の、並び


やはり、これは中平卓馬の「現実感」なんだろうか


展示会のタイトルには
「Documentary」とあるんだ。
ドキュメンタリー。
それって、なんの?
世界の? 日常の? 日本の?
都市の? 田舎の?
なんなの?
なんのことなの?



写真の並びは
家や路地、猫、
おそらくホームレス、
これらが多く、
それも近づいて撮られたもの、
路傍にあおむけの老人、
しわだらけの頬には煤や埃が埋まっている、
その様が見えるような、
というか、臭うような、
生々しい被写体への近づき


時おり
人形や暖簾など「物(ブツ)」の接写が
置石のように挿される


写真の1枚1枚は、
中平さんの見識と眼力を感じさせる、
収まりの確かなトリミングされたもの


トリミング


たとえば「学術」と呼ばれるものが
まずは、あえて狭める、というやりかたで
のちのち、
大きな成り立ちや決まりごとを見つけることがある


種の違う木を叩くだけで様々な音が出せたのに、
どうして鍵や鼓が要ったのか
バレエは、その始まりに、なぜに爪先で踊り手を立たすという拘束を強いたか
獣や樹の皮を剥ぎ繋ぎ合わせれば事足りただろうに、
人が身体を隠すのに、なめし、焼き、飾るという、
物の、技の、質の、
「上手」「下手」
という煩わしさを手順を、
どうして、わざわざ導き入れたのか。


「人」には捉えることも、捕まえることも、感じきることも難しい、
霧のような、気のような、匂いのような
「リアル」だとか「無限」とか「可能性」とか「謎」だとか「真理」
のように語られる
「なに」かを
存在するのかどうかも、まるでわからないような
「なに」かを
<切りとる>
「学術」や「技術」


また、
<そのフレームの内側>の、
盤上/盤面/枠内には
様々な、
分解的な、分類的な、仮説的な、小さな、僅かな、偏りある、局所的な、
情報の「群/系」が
顕れる
(取り出せた、滲んだ、かすんだ、ほころんだ)


中平さんにトリミングされた
(であろう)
約150枚の写真


その対象に置かれる「人やブツや眺め」は、
すくなくともおれにとっては、
ふだん生活しながら見かける「人やブツや眺め」より、
浮かび上がっているような、
こちらにデコっと出てきているような、
そのものが、そのものとして
「ゴロん」と目の前に落ちているような、
そんな感じがした


しかし、こんどはおれのほうが、
並べられている写真に近づいてみれば、
意外にも、その被写体はブレているじゃないか


モノモノしく孕まれたように見える、
撮り込まれた被写体のおおくは、
プロの写真家ならば
あえて狙ったのではなかったら、
おそらくボツにしてしまうであろう、
「こまかにブレた被写体」が少なくない
「どっしりそこにあるように写された」
と思えた被写体が、
近づいてよくよく見てみれば、
ブレているじゃないか


ただ、すこし離れて写真を眺めると
そのどれもが、ぴたっと、ふたたび
そこにあるべくしてあるような、
説得力、存在感、訴求力を膨らませる


これは、
「肉薄する」その作業や行動や意力の、
もろもろの体感の、
ドキュメンタリーとも言えそうだが
まだわからないな、どうなんだろう



中平さんは、かつて
作為的、芸術的、情動的、扇情的、感情的、政治的、道義的、激的、劇場的……
そういった「写真」のあり方に疑問や違和感を覚え、
それで「図鑑的」という写真を目指す(?)ようになった、
と聞いた気がするが、
とにかく、中平さんを思えば、
そのような理屈がよみがえる。


幼稚園児が祖母や祖父に贈られる動物写真集にあるような。
小学生や、中学生が、教室でひらく本に載せられているような。


そういった「図鑑的」な写真。


「ただ、撮る」
という、おおよそ不可能だ、と言いたくなる、
懸案への試み、挑み、跳梁、飛躍。


「図鑑的な写真を撮るのだ」
と宣言した中平さんがもたらした、
インパクトを思う。
写真界にとっては、
おそらく、右の頬に張られた肉厚の平が、
返る勢いでもって甲の檄に変ったような、
茫然とさせる痛みと、衝撃の名残に痺れさせる、
反転・転換・輻輳
であり、
無論、苛烈なアンチテーゼをも、
ぷうっと腫らしただろう。


だけれど、大病後、
かつての記憶力はないと伝えられる中平さんにとって
「撮る」が「憶える」であり、
「憶える」は「生きる」ことに繋がりもするならば、
BLDに並べられていた、
あの2行の、敷き詰められた、図鑑的な、写真の帯や、
ランダムにインプロに撮られた被写体と、
トリミングの具合と、
ブツと人の刺されるタイミングは、
彼にとっての「現実感」や「記憶系」に重なるのではないか。


ならば、で、あるならば。


この展示は彼にとって、
いまさらの、写真や写真界、
美術界、作家達、撮り手たちへの、
皮肉や警鐘でもなければ、
おのが反骨の訴えだとか、
光や影への、抵抗や反証でもなく、
もしかしたら、ただ、
素朴で実直な「私」の「語り」、
そういう意味での
「Documentary」
だったんではないか。


とも感じるのだが、どうだろうな。



このねじれそのものについてだって
皮肉的な表れとは思わない


むしろ
年代物の刀剣や
大切にされてきた茶器をぬぐう
真水に濡れた手拭が力強くしぼられて
滴った雫のような
きらめき


中平さんの
「図鑑的に写真を撮る」は
「図鑑的に自分を語る」と
読み替えられるんじゃないのか


「自分を語る」なんて
ブログ/ツイッターSNSなどのサイトを通じ
あたりまえのように誰もがやっていて
ひどくありふれているのではないか
とも思ったが、
「図鑑的に自分を語る」
のニュアンスとは違う気がする


WEBサイトに載せるのとは別の


○○について語ることが
結果的に自分を語ることになっている


そのような語りとは別の


いま、この日本で、
「図鑑的」に自分を語ることの
特異性、有効性、効果、効能、能



能? 


能面
シテ方ワキ方


主と脇
成り立ちには
どちらも欠かせず
互いが寄り合い
1と1が「2」ではなく
「一」をも成す
ときに入れ替わりあう
主と脇


撮影中は
カメラと人、どちらが中心であり
前面なのか


意識、注目、集中
まざりあっているのか


カメラと人に切断面はあるのか
断裂は接着は違和感は
あるのかどうか


それから撮影と展示にわたるギャップ
撮影と展示は地続きではないのだろうという見通し


ここであらためて思われる
巻き上げられるフィルムの水平性
横並びの一列
そのような記憶
再現されるレイアウトの配列
パラレルの2行


「切断」や「違和」という出来事(ドラマ、事件、事象……)を感じさせる
生じさせる「土台」(舞台、地、ベース、空間……)に
「水平」や「フィルム」や「記憶の形状」が
「/」という記号の意味や役割や象徴性のように
横一列に
わたっているような
横に平らなフィルム
シャッターを押されるたびにコマ送りされるフィルム
記憶の列、記録の型
中平さんがBLDに並べた写真の形


図鑑的な語り
図鑑的な語り口


「語り口」であるならば、
それは演技ではないのかということ
だが「語り」は「騙り」とどう違うのか
水平のカタリ
シテ方ワキ方
カメラと人
撮影と展示
フィルム、焼付け、トリミング
中間性
撮影中の心理・様態・コンビネーション
混ざり合うターム



能面のような面持ちで
被写体を打ち抜く中平さんの姿
近づけばブレていた
家なしと思われる中年男性や
カメラの向うを見つめる猫


カメラの向う
どっちだ
カメラの無効


水平的な記録の形状
パラレルに貼られた写真の並び
「Documentary」


いま図鑑的に自己を語るとはなんだ


飾らない、狙わない、企てない
嘘をつかない、フィクションにしない
勝手なストーリーを与えない
思い込みを避けるように勤める
そのものを写すようにする
ありのままを出そうとする
すべては主観であるとしても客観性につとめること
ただ撮ること
記録すること
一人称からも離れること
無人称、もしくは、三人称的に観察すること
感じ察する気配り
ノローグではなくなるようにすること
だが誰かの視線が強調される撮り方からも離れること
そのもの(被写体)の暮らしの条件や空間や時間も含まれるような撮影を心がけること


これらを関心ごとにとどめておけば
図鑑「的」であることならば
かなりのところまで遂げられるだろう


もしかしたら中平さんは
写真の、自己の
「図鑑」化こそ宿願なのかもしれないが
それは「人」であり「意」を持って「行為」している限り
果たされるのはとてもとても難しいだろう
だが、「的」であろうとしているかどうかで
人として、写真として、
「わけ」と「もの」が
ちがってくるだろう


「図鑑」とはなんだろう


本である、並んでいる、複数ある、
写っている、見える、触れられる
開ける、切れる、切り離せる、
破れる、千切れる、重さがある、
それは一枚、二枚、数枚の写真に構成されていて、
写真にも、モノ自体にも、
上があり下があり左右がある
並びがあり、
言葉による説明があり、
説明には意味がある
だが
図鑑に書かれる言葉は、写真の注釈や補足である
そのケースが多い
図としての写真が鑑をなし
言葉は二次的な(副次的な)情報である
巻頭に解説や評論があったとしても
それは入口やオープニングやインビテーションのようなものとして
機能するように用いられている印象
あくまでも「図鑑」にとっては写真が主であり
言葉は脇役


この写真と言葉の
関係性、上下、序列、位置、奥行き



中平さんの展示
もし今回の「Documentary」に並んでいた写真が
「図鑑的」であるように
撮られていたのならば
その意図と
カメラの記録形態と、フィルムの水平性と
パラレルな作品レイアウトと、
横、その一方向への時間・空間・配置・ベクトル・形状・進み……
中平さんの「私」の「語り」
そして「記憶」する「生」の配り、送り、
コマ送りのような
人生の進み、過ごし、ありさま、たちあらわれ
それらと
「図鑑」の「写真」の言われとの重なり
「図鑑的」である「写真」と
「私の語り」のこと


いま、この日本で、東京で、
自分を、
図鑑的に語るということ