黒川直樹掌編、田幡浩一展覧会、ジョアンとか……


―― Tittle
・掌編
ダ・ヴィンチ
・ソシアリス
・宮市選手に覚書
・田幡浩一展覧会
ジョアンのパン


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―― Text
まあ、お察しの通りです。小説が進まない。だから、こうやってブログに記事をあげてる。おなじ書き物でも、ブログと小説とはぜんぜん違うものなので、小説を書いているなら、びしっと集中して、書くべきときに、書くべき場に、書くべき事柄に気を込めなきゃならない。そうしないで、長い文章をブログに書いたりするのは、往々にしてだらだらのテンションが続くだけで、よい書き物をするのは難しい。
むかし、チンピラが経営するデザイン会社にいたころ、あこぎな飾りを半分死んだように描いてたときですら、手をつけなければならない個人的な作品の彩りや想いは貧しくなったものだ。なによりも描きかけの書き物を率先するべきなんだ。かりにどうしても続きをやれないならば、どこか少しでも書ける箇所を見つけて、そこからやっていったらいいんだ。メモはある。アイデアも書き留めている。枝葉になるエピソードなんて忘れるくらい溜めている。
だが、いけない。そういったもろもろを探す気にならない、なれない、なってたまるかっての、っていうおかしな声が聞こえたりもし、誰だ? そこにいるんだろう。姿を見せろよな。悪戯好きの小人が何人か、あたまの中に忍び込んできて、欲望や好奇心をためる井戸の蓋をあけるんだ。小人群の半分くらいが、そこに生ぬるい紫色の液体をそそいでるうちに、もう半数くらいが何処からか涸れた長い松明をひろってきて、みなで含み笑いにクッククックと井戸の液を掻いて回す。
中平さん、田幡さん、そのまえに見に行った曽根さんたちの展覧会。
それからゴダール/ソシアリスム。
これらの時間から気持に入ってきたイメージやメソッドの着想は、直接も間接もなしに、意識に作用するはずなので、たくさんの助言と刺激を得た、と言うべきなんだよな。ただ、あからさまに書きかけの小説が変化したかといえばそうではなく、直接性という点から言うと、田幡さんが挿絵を描いた縁で会場にあったんだろう、コヤナギでパラパラめくった江国香織という人の小説が、これから書こうと思っていたアイデアに重なるところがあったので、そのまま書き始めるのはやめた、という断念が思い浮かぶ。
知らずにいたのならなんとも思わなかった。だって始めっからお前たちのように人の井戸の蓋を盗む小人どものことなんか、気にしちゃいないんだからな。
イデアが近いってことに、小説をリリースしてから気づいたなら、きっとその偶然を楽しんでいた。だが先に知ってしまった。文体も構成もぜんぜん別物ではあるが、発想の泉に近しいものがあったんだよ。
なあ、感じるだろう? そうじゃないって言えないよな? と緑色の猿のようにはやしたてる小人が、あっちにも、こっちにも。
もう2年以上も前になるのか。大橋可也&ダンサーズ「帝国エアリアル」をテーマにした「シー2ラック&20081228」の執筆中に痛めた左肩が、この数週間ふたたび疼いていた。それがここ数日で、いよいよダメになってきた。一時間もキーパンチしていると、腕をあげられないほどの違和感だ。眠りから覚めたときですら、もう太い神経が麻痺してるような、骨と骨がこすれ合っているような、筋肉がおかしな方向にねじられているような鈍痛があって、それは電気や熱を帯びた拳くらいの瘤が腫れているような重みなのだが、日常生活にも支障が出ているため、誰かと一緒にいるときでも無意識に、腕をぐるぐる回したり、ストレッチのような仕草で心配をかける。
あ、いけない、晒してしまった。
そう気づいたら、もう遅い。情けないやら苦い気持になるやらで、どちらかといえば、肩よりもこういった感情の方が重たい。年末から手書きの時間を増やした。けれど、最終的にはインデザインで校正・編集していくから、パソコンとキーパンチから離れるわけにもいかず、だましだましやってきた。それも、いよいよ難しくなっている。医者や針師にかかる金は無いのにな。

表では、溶けた雪のぽたぽたと垂らす雫が、まるで雨のような音で路面に爆ぜては滲みている。国道にあらわれた裸の女は、教会の坐る角を曲がって石壁をうつつに抜けた。もう十時か? いや、まだ四時二十三分か。夜が明ける頃には、冷えたアスファルトに透ける足跡が、どれもみな凍りつくだろう。ほうっと息を吐く。あけたままの窓枠に夜が止まる。指の腹で首筋に触れると、奴は細かに痺れて、まだらな煙がくびれた。瘤の痺れに手をあてて、左肩を回して首をゆらすと、血の巡りが盛るんだよな。爪のさきに下がる細い氷柱。小人は慮って、いままで口にしたことのある赤紫から、三番目に哀しい嘘だけを掬いあげ、その上に時間をかけのぼる。狭い歩幅がためらいの跡を残す。小人は隠れた女の胸の谷間に隠れながら、ゆっくりと赤紫を見て下ろす。もう真上にいる。のびた氷のさきで出臍を狙う。ぽた、ぽたり。言い訳に冷えた雫が染みる。でも太陽は眠っているから、むこうに亘る彼岸もまた、いまは音と匂いでしかない。今日は風邪気味で耳も鼻もバカになっている。眼を閉じると瞼にうらに銀の小魚が散り散りする。このうちの、そのどれかの痕が恐らくは棘だ、ということだけを、さっきから懸命に忘れようとしているのよ、と。右から三番目の女よ、ちいさく唄ってくれないか。お前のうなじ、その愛らしい痣をかくす、うすい藍色のスカーフに染みだ。ついぞ耳に止めなかった、やわな染み。


―― Da Vinci
今月三度目の銀座。
アジトを換えたのかって?
いやいや。
呼ばれたから来たんよ、ほら。



@日比谷14c出口掲示
 おれが書いたんじゃないよー。
 冴羽が恋を拾う3文字のアルファー波。


特設会場に入ると、
真正面で黒柳徹子さんが笑っていた。
モナでもリザでもないのにな。
なんで黒柳さんだったの?
スポンサーのテレ朝つながりか。
それにしても……



ここ数年にスキャン技術がわーっと伸びたから、再現性の高い複製が作れるようになったらしい。(贋作の見極めも精度を高めたんだろう)。そのへんの成り行きや、絵画「モナ・リザ」の秘密(ってアナウンスされてたけど、あれは秘密っていうか、見てるだけじゃわからない歴史やコンディションなどの情報だったけど)が細かに、しかし簡潔に説明されていた。会場には医学者としてのヴィンチが残した解剖図の拡大パネルもたくさんあって、そのひとつなんだろうと思った、あの「THE・リザ」へのアングルは。理学的? 医学的? っていうのか、ああいう解釈の性格は。
たとえば絵のハーモニーやストーリー、エモーショナルなベクトルへの照射は、ほとんどされない。なので……ははあ、これが微笑ねえ……ナポレオンも虜にしたんだろう……的な感慨にふけるには、おのれのハートに篭るしかない。
人がたくさんだった。振り返る、後に歩く、踵を返す……そのたびガッチガチ誰かに当たる。ごめんなさいを小声でリピートするアンドロイドになった気分。
残されたアイデアやデッサンのメモが6000枚。それでもヴィンチが生涯で留めたものの1/4らしい。美術や医学の研究に使うお金を稼ぐには(だけじゃなかったみたいだけれど)軍事につながるアイデアが一番金になったという話があった。いつの時代も……と思う。



―― Cinema
今月の初めにゴダール「ソシアリスム」を見た、っていうか浴びた。

おっとちがった。こっちだった。

なんつーか「もう! ほんとに! おい、こら!」って感じだった。
くわしい心象については、ちょっと他に書く機会があるかもなので。
動きがあったら、あらためて。



―― Football
フェイエノールトの宮市選手がオランダ/リーグ・アンのデビューから2戦目で得点した。
トラップがちょっとズレたのかなーと思ったけれど、うまいことDFのフェイントになって、ズドン!!
あの若干のズレまでもが狙いだったとしたら、その天賦を……もしもマグレだったならば、君の天命を視た思いだったよ。
デビュー戦ではスピードある突破でゲームに光速の徴をあたえ、その節のリーグベスト布陣に名が挙がった。はや2試合目においては点を決め、イノセントな喝采を一身に浴びた。
これがフットボール界において、どれほど衝撃的な出来事かっていったら? 
バイオリニスト/バレリーナなら、日本でプロになるより先にリクルートされた海外の有名楽団/バレエ団で「あっ!」というまにソリストを任され、もう何年も何年もを毎週末は劇場で過ごしてきた「煩型」ばかりのファンから、スタンディングオベーションを受けたインパクト ―― なんて言えるだろうか。(どーでしょうね? こういう喩えについて、音や踊りにも詳しい方)
日本じゃ「ミヤイチねえ……んー、まーだまだプレーヤーとして弱点や不足がたくさんあるんじゃない?」とか色々指摘されてるみたいだけど、なんだか厳しい人が多いのねー。だって宮市君は高校卒業を控えた18歳の少年じゃないか。おれなんかその頃は、耳や鼻なんかヤッすい金具だらけでグルングルンの髪の毛で踊り狂いながら週に三回は日焼けサロンに通うエセ黒人として、目標とか夢とか口走ってるMENを見聞きすると、おぼえたての口汚いジャーゴンを吐き散らす爛れたモナドだったから、18歳の彼に……技術? 戦法? 経験? まーよう言えんよ。ためらうし、これから質をあげていくんじゃないのー、と。
プロ契約を交わしたアーセナルじゃ、まだ出番ないだろうから、レンタルで移った……いま酷い状態にあって降格の危機に瀕してるフェイというクラブと、一対一を期待するファンが支えるリーグ・アンというステージは、彼にぴったりなんじゃないか。まして宮市選手はサイドアタッカーウインガーフェイエノールトには「誰より速いウイングに夢を賭ける」という命脈が息づいているらしいし。
それに宮市君はハンサムで、言葉もしっかり話せるし、視線もしなやかで意志に眩しい。
風貌に充ち満ちなるスターの予感!
託された資質を積極的に伸ばしながら、あせらずとことん楽しんでほしいな。



―― Review
@Gallery Koyanagi
『田幡浩一(Kouichi Tabata)/trace of images』
http://kouichitabata.com/


印象に残ったのは、入って右手から奥に向かって架けられていた、いくつかのアクリルパネル作品だ。アクリル板に引かれた疵跡に染みこんだインクが図柄を縁取っている。ロートレックのポスターから、色を抜き取って、輪郭だけを残したようなタッチ。そこに、トランプの王や女王にJoker、サイコロや牡丹の花など、ストーリー性の高いモチーフが芳しさを加味する。
また、図柄の背面にはところどころに平面性を感じさせるベタ塗り ―― ADOBEアプリケーション的な単色 ―― の赤や黒などが挿されていて、「色」のストーリー性も一枚のパネルをドラマチックにしている。
作品に赴き深い奥行きを与えているのは、アクリルパネルの「浮かび」だ。パネルが背面に置かれた板から数センチ離されて取り付けられることによって、板に影が写り、イラストが宙に浮かんでいるように見える。
田幡さんのアクリルパネル作品は、小洒落た置物/小物的ニュアンスのモチーフや、疵線描のタッチが感じさせるあいらしいぎこちなさ(照れ隠しにされる言い訳のようなたどたどしさ)、それから、このような「浮かび」の結び合いによって、不思議の国の雰囲気に富んだ雑貨屋に迷い込んだアリスのような気持にさせる、とふわっとした比喩を書いてしまいそうになるようなファンタジーとガーリーなミニチュアを最前面にする。
でも、細かく見ていけば、そういった洗練性だとか玩具性のむこうに透ける、芸術的な狙いに気づく。
小説でいうと「ファッショナブルなカップルの恋愛ストーリーに、ときおり気の利いた言い回しを挿しながら、読みやすい文体で綴られた20代の女性に向けた読み物」という態で書かれてはいるが、その実「作者が関心を向けている文学的な発想や技法がふんだんに組み込まれ、繋ぎ合わされた大人向けの ―― 読者のリテラシーによっていくらでも豊かな発想のトリガーになり得る ―― 前衛文学作品」に掻き立てられるジェラシー……の話じゃなかった。心憎い作品の並びだった。


一に挙げると、先の「影」だ。
通常の展示(むちゃくちゃざっくり言っている。さきに進みたいのでこの点は説明しない)であれば、絵やパネルと「ギャラリーの壁」の間に落ちるものだけれど、そんな「影」をあえて「アクリルパネル」と「パネルを取り付ける板」との間に封じて「反転」を見せるてるところ。はじめ、どうしてこんなに胸騒ぎがするのか……と作品の前で考えていたんだけれど、その理由の一つが、この「影」の位置だった気がする。ざっくりレイヤーにしてみると、最前面に「イラスト」その奥に「パネル」その奥に「底板」その奥に「影」最背面に「意味や物語」という並びが「ふつーの絵画」の観察だとしたら、「パネル」が二段に割れ、その間に「影」と「意味や物語」が挟まり(「透明なパネル」と「数センチの隙」に封じられ)、さらに「意味や物語」が「底板」の向うにも、やはりある……という気配に、影は生じない。この顛倒/断絶/分裂の入り交じった感じが、おそらくアクリルパネルの不安観につながっている。しかも「影」はパネルの長い四角い影ではなくて、線描で輪郭された王やJACKや牡丹の花など、描かれるモチーフの「影」だ。「肖」とも言えるだろう。このモチーフの凹凸感。パネルの透明もそこに効果を発している。宙吊りのような、取り出され抜き出された骨のような、それでいてまだ「そこにいる」というゾンビのような……本能的に不安になるというか、見ているとおかしな感じだ。


他にもいくつか気づいた。しかし肩が痛くて細かく分析・点検しながら書いていられない。だからタームだけ列記する。まじ痛いっていうか痺れてる。左手の指もひんぱんに麻痺する。握力が失われる。


・分解性
・最小(じゃなく極小?)単位の確認
 (これ出来る(心理的に)ってことは、おそらく田幡さんが「もともとの形」を信じているということ。前提としてのブツ・輪郭・名称・役割……みたいなサイズ(意味・現象・存在……)から作品製作を始めている人だ、と思った。モノやコトを疑ったり、ひとつひとつ確かめたり、手触りを探ったり、どのように成り立っているのか検証するような、解剖的な興味・関心・注目は、たぶん彼の一つのテーマなんだろう。だから輪郭にした描画の隣に、ちょっとバラしてみた図、さらにバラバラにした図を並べている、と思われる、が、どうだろう)
・並列、「並べる」のニュアンスから「比較や優劣の性」がスポイルされている。
・脱臼感 
・解体
 (でも解消ではない。あくまでも「それはそこにある、これはこのようにある、のだろう?」という肯定的な投げかけ、コミカル、キュート、悪戯好きな子供心のポエジーなどを感じる。これらは、技術的・アート的・絵画的なプロフェッショナリズム……ハードな学究心や探究心をやわらかなオブラートに包む効能)
・輪郭 臨界点 
・臨床的な作品群
・レイヤーとして考えたときに「影」が位置を違えていることに加え、選ばれている図柄が「トランプ」のキングやクイーンだということの、洒落……いや、ズルい、じょうず。「めくられる」ことのメタファーである「トランプ」の柄の「影」の実体が……最背面より前に「影の実体が見えて」いる、見せている、封じて見せた、捉えた、宙吊りにした……にくい。
・分解された輪郭 千切られ、切られ、分けられた線描 が「化学式」に見えてくることの意味
 (あらたな有機の発生、組み換え、ユニット性)
・どこまで線同士を遠ざければ(離せば)モノはモノ(それはそれ)として見えなくなるのか
 (どうして「それ」として見えるのだろう、「それ」としてみたいのだ、見たい「それ」だから、いちど離してみるのだ、という純情や真摯、その熱さのキンキーと「パネル、疵、線描、染みるインク、影、スノビッシュなタッチとマチエールの質感」みたいなものとのアンビヴァレンス)


まだある気がする。気になる人は見に行ってみてください。
おれは夢中になって「うわーこれ! これ! なんだよ! やるなあ! ずるいなーこういう小説おれ書けないからなあ!」とか興奮していたんだけど、一緒に行った人は「……ん……」なぜか浮かない顔で、あれあれって思ったら「……まずこの牡丹っていう花が怖いので真直ぐ見ていられん……」と青い顔をしていた。


この日はコヤナギの雌と思わしきスタッフがカウンターに座りながらズーっと御喋りしてて、そこそこ広いスペースのどこにいてもパーチクピーチク響いてくるっていう、あれーここって何処だっけ? さすがに「やあやあ御機嫌じゃないか。ところで君たち小鳥かね?」と口ばしを摘みにいったら、なんと2羽とも「あ?」「ぼーん?」ってクエスチョンマーク浮かべるじゃないか。ちょいまってくれ。室内の静けさばかりか、おれが浮かべるはずのハテナ・サインまで盗むのかい。もし、あの場でコヤナギ的BGMのアイデア実践かなにかを囀っていたんじゃなかったンなら、ギャラリースタッフの責任である臨機応変なホスピタリティを想像しない人間に、いったいどんな美術がプロポーズできるんだい。その場に作家が居ないのならば、ギャラリーやスタッフが作品を背負うのだと、おれは思うけれど、君たちはどうだい。


銀座は小雨。



―― ジョアンのパン

池袋の三越が無くなっててホントよかった。
わかっているよ。ああ、不謹慎さ。
だが命にだって関わる問題が生じるところだったんだ。
もしあの建物がラヴィに換わってなきゃ?
JOHANのパンで獄太りしてた!
この旨さ、なんなんじゃい。
(写真じゃ美味そうにないなあ。
 ほかにもカレーパン、メロンパン、くるみパン……
 お腹減ってるときは近寄っちゃダメだー)