小説のこと、クラシックのこと、唯くんのLIVE。五月について、其の傘(さん)。



か み の 毛 な が き あ な た の そ ば に
睡 魔 の し ぜ ん な 言 葉 を き く
あ な た は ふ か い 眠 り に お ち
わ た し は あ な た の 夢 を か ん が ふ
こ の ふ し ぎ な る 情 緒
影 な き ふ か い 想 い は ど こ へ 行 く の か。


薄 暮 の ほ の 白 き う れ ひ の や う に
は る か に 幽 か な 湖 水 を な が め
は る ば る さ み し い 麓 を た ど つ て
見 し ら ぬ 遠 見 の 山 の 峠 に
あ な た は ひ と り 道 に ま よ ふ  道 に ま よ ふ。

(『夢/荻原朔太郎』より)





この半年。
やっと、やっとだ……筆が走り出した……と何べん書いてきたことか。
書いて、書いて、書いて、直して、治して、直して、治して。削って、削って、削って、加えて、挿して、また直して。四日かかった草稿を三日後に読み返してみたら……っていう話も前に書いたっけ。
行きつ戻りつ? 尺取虫? 返し縫? 
ああそうさ、ぜんぶあいつ、返し縫のせいさ。せいさ、せいさ? せい、精、いやそれじゃ立場が違うよな。せい、せい……性か。返し縫の性。ただ、性は性でも、3センチ進んで4センチ帰るっていう、無限後退のサーガだ。無限後退。そりゃ終わらないよな。どこに向かってるんだ。向かうところはあるんだろうか。比喩じゃない。実感として3センチ進んで4センチ帰ってく。どこに? 変だよなあ。だったら始まりからも遠ざかっていくはずじゃないか。いまいる、ここは、どこなんだ。向かってく? どこへ? さかのぼるにしても、その地点や位置に覚えはない。漠然と察する景色や音、台詞を頼りに書き進めていくんだが、そうしていると、さきに進めるんだろ……と勝手に思い込んでいるだけ。気づけば4センチ後退だ。いつまでも退きだ。それがどこなのか。わからないんだよな。先ってどっちだったっけ。エクスはこの調子でやればよかった。テーマはあった。添ってもいたからな。いま書いてる小説は、もっとかっちりしたフレームとモチーフがあって、だから具体的に辿れるはずなのに、そうならない、自由にならない、自由? んー。それも、ちょっとそぐわない言葉だ。書くべきじゃないことを書こうとしてるのか。体にあわないことを書こうとしてるのか。ブラッドベリがそんなことを言ってた、ような気がするよ。いや、バロウズだったっけ? 肌にあわないシャンプーを使ってるとヒリヒリしちゃうだろ。だからおれは林檎を妻の頭に載せて、それでショットガンをぶっぱなしたんだ。からだ。あわない言葉。からだ。あわない肌。すっかり空だわ。あわない心。それにしても魅かれて、いや、退かれ続ける、そういう時間。もうオマエしかいないんだなんて無様を、もうどれくらい言ったらいいの。捉えようにも逃げるじゃない。逃げるオマエからこっちも遠ざかっていくじゃない。引く。轢く。惹く。近づけば近づくほど、その遠さを思い知る。巨人の背は大きい。聳える山の峠は憎たらしいほど深くって。
やり直さなきゃならなかったり、書き換え続けなきゃって状態が、嫌なんじゃないんだよな。さかのぼって確かめて、あらためて……を続けていると、それまでは書けなかったこと、知らなかったこと、見えなかったところへ勘がつくようになる。それは面白い。面白い感覚。物語が拓けていくし、はじめてみる映画を独り占めしてるみたいな気持ちになることもあったりさ。
ただ、時々ぐーっと圧し掛かられるしんどさだよな。
「え? あ……かなりのところまで書けてた、はずだったのに……ぜんぜんダメだったんだ……」
その煩悶。あの落胆。
三日たてば別人だよ。どうしようって思うよな。まずはさ、そう思う。え、やばい、別人じゃんか……どうしよう、って。言ったことは取り返せないし、って取り返したいのか? どうだろう、とにかく、もう変わってしまっていて、もう変わってしまったって言っていいのか、それもわからず、読み返すと、おれじゃないほかの誰かが書いたんじゃないのかっていうね、それも三日くらいだとダメ野郎の作品なんだ、がっかりだよ。一年くらい前のだと、また違うんだけどなあ。一年後、もう来てくれたらいいのに。そしたらこんな思いしなくっていい。一年、許されるか? もう一年、残っているんだろうか。なあ、どうしよう。別人になってしまったんだ。やりきれないのはさ、あれだよな、
「で、また変わってしまう」
そうだって、なんとなくだけど、体験から引き出されてしまうところだよな。
いや、変化の内容は知らないよ。ただ変化する、変化は避けられない、どうしても変化が来るってことは、なんとなくわかってるっていうさ。三日前と今が違うんだ。なあ、あいつ何処行ったの? どこだろ。探してるんだけど、見つからない。忘れ物だけがあって、あ、そうじゃなくて、借りてる物もあってさ。嫌なんだよ。もう会わないんだろうなって思ってるのに、そいつの物が手元にあるのって、苦手なんだ、こういう気分。棄てたらいい? やれたらこんな気持ちにならないっつの。わかんないよな。どうしたらいいんだ。したいことはあるよ。そのままやってったら、あらゆるものがぶっ壊れてしまうんだよ。だから考えてる。だから悩んでる。壊していいはず、ないだろう。アイツ居なくなっちゃったんだ。でも、三日たつと、ひょっとしたら帰ってくるかも。そういう時あるんだよ。うん。六日前の自分が、ひょっこり帰ってくる。そういうことって、たまにある。おいおい。どうしてくれんだよ、っていうさ。今頃なんだよ。しかも言ってること違うじゃんって。なに信じたらいいの? もうよくわかんないよ。変化。変化。変化。これが上昇とか成長のニュアンスとして感じられてるならな、まだいいんだ。うん、良くなってるから、むかしのことは、多めに見てよね、な“アイドル80sポップチューンみたいな投げキッスください”の気分で済む。ところでワナビーとワラビーだったら、どっちが好き? どっちも好き? オマエ欲張りだなあ。
しかし、ここで書いてる“変化”ってのは只の変化だ。ただの変化だから。善いも悪いもなくって、違うだけ、今日から明日への横滑りっていうか、まあ上も下もなく、ただ違ってるだけ……なら? それって趣味嗜好とどう違うんだ。昨日書いたあの書き物、ぜんぜんダメじゃねーかって、それ気分で言ってんだろ。
「アンタはさ、その日の気分で好きとか嫌いとか言うんだよな最低だよもう信じられないから、この世から消してやるよ」
なんて叱責をハニー&ベイブから受けるであろう気分屋のへつらいと、それってどー違うん、という一人突っ込みモーダル&コーダル。
そうよ。
言ってみれば尺取虫を高ぶらせるのは神の見えざる愛撫よ。
ちがう、ちがう。
もうやだー





一度訪れると何度か続くっていう銀座マジック。生地に黒胡麻がまぶされたクリームチーズのパン。ジョアン美味しいー。
こないだはタルティーニの悪魔のトリルを生音で聞いた。バイオリンの生音ってCDとぜんぜん違う。久々にバイオリン聴けてよかった。高音のビブラートが鼓膜に利く。ぞくぞくする。エロスに過ぎる。やだなあ。そんなに優しく抱えたりすんなよ。もう何処見てていいのかわかんないよ。だって1対1じゃないから。せめて三人か四人くらいだったらなあ。あんな、一対何十、何百で痺れさせられるって……やめよう。まだ昼じゃないか。そうだ昼顔だ。昼顔いいよなー昼顔。冒頭のシーンのさ? 覚えてる? あの馬車と車夫と婦人のセット。えー、もうしちゃった。“ほとんどの牛が後悔という名だ”爛れきってるはずなのに、面持ちから凛の失せないドヌーブの不実、不実たる奇跡。そりゃもういやらしくってさあ。え、真昼間から……いいの? 見えるよ。おまえ、その顔なんだよ、口なんか半開きじゃねーか。涎まみれてんじゃないよ。ちゃんと舐めてとりなさい。みんな見てるよ? わざとだろ、知ってるよ、いい加減にしろよ、いい加減にしてみろよ、いい加減になっちゃえよオマエ、いいから言う事聞いてろよ。「よくここへ?」「夢では毎日」「よい午後だ」あと若い殺し屋ね。……殺し屋だったっけ? 出てきたっけ? あれ恋人だったかな。細身のスーツと、黒いエナメルのジップが最高にエロティックなんだよ。ベッドの白いシーツとさ、つやつやのブーツ、それから狼みたいな八重歯な。ほんとは噛んでほしいんだろ。うすくアイライン引いてるのってくらい、くっきり縁取られた男のサディスティックな下瞼だよ。スズメ蜂の毒針みたいな睫だよ。「怖いひとね」「俺と寝たがる女はいくらだっている」「こわいくらい感じたわ」「名前は」「昼顔」「ちがう。本名を教えろ」「昼顔よ」あのエナメルいいよなあエナメルのブーツ。あ、今度どっかで見つけてくるから、あれ履いてオマエのこと蹴っていいよね? あ、いまは痕になったら困るタイミングなら、んー、じゃあ踏んづけるくらいだったら大丈夫? あとで連絡する。「なあ、セヴリーヌ。ピエールはまるで聖人だな」いつもの格好で待ってんだよ。わかった?
それにしても若い演奏家は大変。
何百年も語り継がれる霊族や悪魔に産まれついた人たちが、何十年も音楽や人生の経験を積んだところで、削れるだけの魂みんな削り出して描いた曲をやんなきゃなんないんだ。いくらなんだって身の丈にあわないだろ。なのに演奏しなきゃならないの。修行時代ってそういうもんですか。“幸せに育った。愛に囲まれた。支えてくれる人がいた。心も体も健やかです”な人が、なんでタルティーニ? 悪魔のトリルってどういうわけ? 15年も20年も勉強と演奏してきてるんだから、技術はあるんだろう。なのに音符どおりに弾くのが精一杯なんだからな。楽想に臨場感も現実感も乏しくって、テンポもリズムも演技っぽい。言われたとおりにやってます、から抜けられてないんではないか? でも、そういうものなのか。クラシックの演奏会って、だいたいこういう感じなんだろうか。ファンなら当然聴いたことがあるような、録音に残された天才の物凄い演奏が過去に聳えていて、わかい演奏者はそれと比較され隣あわされ、当たり砕け散っていくものなのか? わかい才能は将来性=期待値込みで登場するもんなの? なるほど条件付の愛ね。芸術の世界なら許されるのか。条件付の愛か。なるほどなあ。
んー。こないだも曲に託された景色みたいなものは見えたから、そこまでは表現できていることが、もう達成なのかな。クラシックファンはどういう立場や距離で演奏を聴くんだろう。よっぽど凄ければ理屈や想像なんかしてられないんじゃないのか。どうなんだ。こないだは聴いていたら、え……もっと、そこはもっと……弱くだろ……いや、テンポ早すぎるんじゃないか? 間が、間が、間がない……ゆとりがない……こんどはスタッカートがゆるい……ような……そこって、さっき繰り返してた詮索的なメロディを、細かいスタッカートが動揺となって、それで心が、いよいよ一度ばらんばらんになるってフレーズなんでは? ここは、だとしたら、もっともっと前半をぐーっと低く抑えた調子でひっぱって、それで“タッ! タッ! タッ! タッ!”の縦の調子を強くしたあとに、崩壊していく時間と空間を響かせるヴァースになだれ込んでく楽曲のダイナミズムと、スケールと、そのスケールを内から占める音の重なりとうねりの、その凄みがスケールを食い破って楽曲のそとに噴き上がるような、動揺が人を内から崩壊させる様子みたいなものが音色から聞き取れなかったらおかしいんじゃないか? 曲の流れや波だけ辿ってるんじゃないのか? 才能を認められて、あちこちで勉強をしてきた人物が、なんども曲を聴いて、繰り返し繰り返し稽古しても、ここまでなのか?


きみは音楽家だ。鼓膜なら音色で震わせてほしいだろうし、口説き文句だったら上に挿した絵画一枚で充分だろう。きみが選んだ曲はタルティーニの悪魔のトリルだった。つまりは、そういうことだったはず。あわになった人魚の瞳のような、つやっぽい緑色のドレスに身を包んであらわれた、あなたの魂は泳いでいた。あの会場で一番ひねくれてるのは誰だったか、ほかの心優しい拍手の徒にやんわりしている場合じゃなかったんだ、わかるかな? たった一人、あの場に、ちょっと冷房の利きすぎた空間に、おまえが寝そべる動物の亡骸みたいな音のする琥珀色の武器で、あの場でだ、撃っておかなければならない奴がいたんだ。わからなかったか? ほくそえむ悪魔がいたんだよ。そこなったよな。しそこなった。処女であるかどうか。そんなことは問題じゃない。おまえが今まで、どれくらいの男と、女と、抱き合ってきたかなんか問題じゃない。きみがもし、どこの誰とでも寝る女だったとしても、構いやしない。いいか? 赤い硝子の欠片はそんなところに埋まっていないんだ。おまえが裸になるたび、覆い隠してきたものがあるだろう。見せたことのないものがあるだろう。露にならないものを、いつだって隠してきただろう? 悪魔の顔を見てみろよ。何処に屈んでいるか? わからないか。音は、演奏は、お前は。「発現と封印」だ。そうだ、ハイデッガーだ。聴いたことがあるだろう。まだ蕾だった頃のきみが一人渡った国で、“真理”という言葉を使わずに、人の、成り立ちの、魂の、ありありの、そのゆらめきを盗もうとした男の名だ。発現と封印だ。封じ込めてきたものがあるだろう。わかるか? なにもかも脱ぎ捨てて、動物のように鳴いた夜にですら、明け渡せ得ないものがあっただろう? それがトリルだ。それがタルティーニの悪魔のトリルだ。いけるか? そこまで。長い旅だ。痩せ細り、衰え、醜くなり、皮と骨で彼岸に斃れる、そこからが始まりのような、長い旅だ。いけるか? おまえに。その馬の毛の寝そべりに。聴こえるか。あの夜、どうしておまえは、ただ悪魔だけは撃たなかった。  


巨人や悪魔が、40歳や50歳で描いた曲を、20歳そこそこでやんなきゃならない難しさか。とはいえ魔女とか巫女みたいな人なら、何歳だろうが弾けるだろうしな。ひょっとしたらそういう資質こそ、一流どころとそうでない演奏者とを分けるのか? だとしても、自分の適性や歴史に添った、弾ける(感じ取れる)作曲家や曲があるだろう。幸せに育ったから、どうしてもシリアスになり切れないとか、悪魔的なテーマに近づけないってこともなく、むしろ、幸福や安定に育てられた精神からしかアプローチできない狂気みたいなものも、あるだろう。そういう自覚と、自覚と、おなじだけ強い懐疑の心を持って生きてるかどうかなのか? 人格に叶った作品や悪魔に巡り会えるかは、そこにかかってるか。
小説も、物書きも、然りだろうな。よい勉強になった。
超一流の演奏ってどんなんだろう。
世界最高レベルの小説を書いてる人に会いたい。


有楽町のコパン・コパンで晩飯。
いやあ、めっちゃ繁盛してるだけあるー。立地とボリュームから考えると値段も悪くなかったし、なにしろ、ここは海鮮チジミが絶品だわ。タコのキムチは生の白菜の料理だった。シャキシャキ感と唐辛子ペーストの辛味みの具合がよい。塩茹でかな? 食べ応えのある大きさにカットされたタコも、しっかり味がついていて。
あの辺は平日のほうが混むんだよね。
週末の17時、18時なら予約なしで入れるかも。





二日目はアップルストアでエレクトリックミュージックのLIVE。


「Good Night Two」&「an4rm」Release Event
at Apple Store 銀座
【Live】yui onodera, hajimeinoue, Fugenn & The White Elephants, hiroki sasajima, hakobune


唯くんのLIVEを初めて聴いた。
すごくよかった。
五組の演奏者がいたことで、彼の特徴も際立っていた。


以下はケータイで打ちっぱなしたメモ。


――


優雅 ながれ たゆたい エレガンス?
俳句的


音数、要素、タイミング、をまとめる手腕
編集性


情緒


交錯 一瞬 コスモポリタン 動物のリズム 欠伸とか鳴き声のように オシレーターなりの電子音 ハーモニーとはなんだろう
違う 違い そうじゃない 重ねられるために作られた音色ではないだろう
目的に沿って選ばれ重ねられた音とは違う
ストーリーテリング じょうず 転調 映画的
風景画 風景 見える
ドローイング?
いや、もっと時間と計算がある


しかし嫌味はない


要素と要素に距離がある
遍在
そこが俳句っぽい


音の羅列、点在とはちがう
まとまりはある
ある、と言わせるものは?
物語 区画 エリア 区域
繋ぎあわせてるのは?
大枠は?
なんだろうな…


地面と空中を聞かせる音色
下から上へ三層ある
サンドイッチ
ミルフィー
積層
土 どこかに化石が埋まっているかもしれない


転換のタイミングには作曲家としての意識が働いてる
スイッチング ミックス こだわり
隅々まで『なにかが』行き届いてる感じ
血管とか光とか?


要素、音数、音色、和音? 
鳴り、エレメントに(間)がある
あいだ 
あいだがある
この あいだ に脈打つ 血管とか光とか 
でもコントロールとはちがう
調整、統制されていない
それは、そのままあった感じ
まえから 以前から そこに あった
そう感じさせる 風 昆虫の鳴き 細い高音


混ざってはいない
そのものが そのものとして それぞれに
ただ在る
散らばっては居ない
このへんのバランス 様子 様相が
アーバンだ
 都市的 都会的な香り


エレメント同士は関心に結ばれていない
互いに強い関心を持っているわけではない
ただ 連関はある
断ち切れないもの
断ち切られないなにものか


あるがままを 
トレースしようとしても
どこかで対象や現象を
切り取り フレーミングし 
カットしなきゃならない
そうした時点で
人工や 編集の 臭いがする
ときに死臭


でも人によって
唯くんの音楽もそうだ
有機や自然が音楽に残ってるというのは
そこに聴き取れるというのは
なんだろう


――


唯くんは、音楽を作っているうちに空間や環境を学ばなければと思うにいたって、いまや専門家として事務所に勤めてる人なので、その音楽作品に、よく練られた大きな環境性が聴こえるのは理とはいえ、この“大きな環境性”は「今回は海と都市」「今回は森林とログハウス」のように、あらかじめ設けられたスケールがトレースされた楽曲とは違う気がする。むしろ「エレメント、エリア、ポイント……浜辺、林間、雨音、黄昏、文化、人種、言語、過去、時間、一昨日の風……老朽化した建築物……みたいなこと……意味……物語……複数にわたる主題の偏在……」のような、その時々で気にかかっているコンテクストを、徹底的に分析し、言語化し、あらためて音の抽象性に還元するようなトライアルのなかで、それぞれのコンテクストが混ざり、あらたまり、そして起立を経てついには独立していくモチーフの“輪郭化”が、彼の楽曲に星座を結んで、その点・星・区画の広がりと煌きが、あの「大きさ、スケール、環境性」みたいなものを、もたらしているんじゃないか。
おれは、ここに彼の資質と意匠を聴いた。


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黙祷。