金曜コラム『藪の中の黒猫』+写盤

●金曜になったし



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2012/0727/fri
金曜コラム 003
新藤兼人『藪の中の黒猫』
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生涯に49本もの映画を撮り、「シナリオは何百本になるかわからない」と振り返った映画監督・シナリオライター新藤兼人は、キャリアの後年に「老人とその生」を主題に据えた映画を撮り、社会派、正義感、人徳者とくくられるが、そういった形容はミスリードはなはだしく、新藤兼人への敬いを欠いた態度だ。
戦前から映画界に入り、100歳まで生き、死ぬまで映画のことを考え続けた巨人の創作が、映画が、いかに試行と工夫に編まれたものだったか ―― その好例が、この『藪の中の黒猫』だ。


時は平安、戦乱の世だ。
男たちは合戦に連れ出され、ひなびた農村に暮らすのは老人と女衆だ。
中年の女、それと義理の娘は、息子=夫の帰らぬ一つ屋根のしたで、何十人もの野武士に犯され、絶命し、家とともに焼ける。


朝、焦げた肋骨のように崩れる木の支柱、白い煙。
焼け跡に黒猫が鳴く。
女たちは恨んだ。呪った。


黒猫の地霊に禁じられた誓いをたて、白い肌、やわらかな唇、あやうい瞳 ―― 褥の妖魔として彷徨いでれば、かどわかした男の首にかぶりつき、食い殺しては棄てる。
“出るぞ、羅生門に……”
噂が広まる。


男(息子=夫)が三年ぶりに戻る。
手には敵将の首、大将に見初められた男は出世する。
さらに、羅生門の化け物退治を命じられ、「遂げられなければ貴様を殺す」と念を押される。


男が索敵に出れば、母と嫁に酷似した怪しい女たちとの巡りあいだ。
女たちは再会に驚愕し、心のうちには歓喜、しかしその身はすでに物の怪だ。
愛しい男をまえに、顔をあわせても知らぬ存ぜぬを決め込み、表情を変えない。
母は能を舞い、妻は素知らぬ顔で酌をする。
ふたりに変わって心が泣く。


妻は男のそばに居たいと義理の母に訴えるが、母は身構える。
堪えろ、なにもかも捨て、武士どもへの復讐に徹すると誓ったのだ、忘れろ。
義理の娘を突き放す。


かつて妻だった女は、男と契る。
身上は隠したまま、妻によく似た女として、毎夜抱かれる。
母親だった女は、地霊との誓いを破った義理の娘が、七日目の晩に地獄に落ちると知りながら、二人を見守り、しずかに能を舞う。


男は、女が消えたと知って失望し、取り乱す。
錯乱と逆上の憂さ晴らしに、母と察した女を化け物とあてつけ、ふりあげた刀を一息に下ろす。
女の左腕が落ちる。
男はそれを拾い大将に貢ぎ、「よくやった。みぞぎを済ませろ」と命じられ社に篭る。


最後の晩だ。
真夜中の社、叩かれる戸、呼びかけの女声だ。
「あなた様をお助けにあがった、わたくしは占い師にございます」
男は拒み、口説かれ、ついには戸を開け女を板間にあげる。
男は気づく。
「・・・・・腕はどうされた」
左肘から先が無い女は物言わず、男を視る。
そして、うしろのない血闘だ。



映画の幕開け ―― 大森、藪、小川に村落の小屋が収められた引きの絵は、ありふれた日本の原風景を思わせるのどかな風景画だ。
社会や性に見てとれる光と影 ―― 表層と真相の二重構造 ―― そのポジティブを、農民や村民、そして田舎の生活風景に託すところに、新藤兼人の主観を見る。


劇中でつまびらかにされるのは、惨く野蛮で、尊厳もなにもかも踏み潰す、人に在り、人に宿りながら、人には扱いきれぬ怪物のような性だ。
伝承や信託、子供や次世代に可能性を切り拓かせたり、時を超え永遠に併せる作用のような、恵みの性とはちがう。
血を分けた間柄をも敵視と嫉妬で引き裂き、それでいて捉えて放さない性だ。
この性の暗部を、白と黒のモノクロ調がより一層の際立ちにしてみせる。


挙げるなら中盤部のハイライトだ。
死んだものと思っていた男が戻り、対面を果たした夜の女たち、その会話。
ここは暗示に満ちた、危ういシーンだ。



「名乗りたい。明かしたい」
「だめだ、許さない。堪えろ」
言い合いと聞こえるほど、するどく対立する女たちを引き裂くのは、そこに姿のない、三年ぶりに帰った(死んだものと思われた)「息子=夫」だ。
焼けた家屋の煙と埃に仰向け、死後の安らぎを手放してまで人でないものと契り、すでに魔性の身に化わった殺人者が、母性と女性という人間の本能として挙げられる感情に還り、母と嫁という立場でもって、互いの存在を強烈に意識しながら向かい合う。
生から切り離されたところでなお、人間や存在を捉えてはなさない、性の酷さ、底知れなさ ―― 夜な夜な唇を武士の血に染め、肉を髄を啜ったふたりの女ですら、真新しい愛にうずき、性に悶える。
禁忌に触れていて同衾的で、ひどく深い嫉妬に根ざした反目のシーンだ。


さらに、最後の母と息子の血闘。
気が触れたように刀をまわす男は、強烈な右からの照明に顔の片面が浮子彫り、かたや母である女は、社の床を飛び跳ねる猫身に正面からライトがあてられ、壁際に追いたてられたアップの表情には、女として母としての人情を超えたありありが浮かび上がる。
現世における親子の縁《えにし》が終に途切れる光妙《たえ》 ―― この照明の使い方ひとつにしても、性に奪われ、性に翻弄され、性に乱れた人間への眼差し ―― 新藤兼人の意匠が熾きる。



監督・脚本は新藤兼人。撮影・黒田清己、美術・丸茂孝、音楽・林光。
出演は中村吉右衛門(若々しい鬼平羅生門の“鬼女”を狩る!)、みずから能を舞うアイデアを提案したといわれる乙羽信子、これが初演とは思えない魔性に匂う太地喜和子だ。
猫が飛び跳ねるように竹やぶを駆ける女たち、黒猫と女性のカットバックにはシュールレアリスムを髣髴とさせる演出が施され、繰り返される武士誘惑〜殺害までの経過は省略的かつ編集的に扱われる、コミカルでミニマル、かろやかな猫の足取りの洒脱さも具えた怪奇譚に仕上げられた本作『藪の中の黒猫』は、平安・羅生門が舞台のシナリオだ。これは新藤氏が師事した溝口健二雨月物語』へのオマージュだ。


生前、新藤氏は「私の映画はいうなれば男女の性がテーマ。この世の人間社会において、性こそが諸問題の本質だ」と語った。
後期の代表作『午後の遺言状』しても、この眼差しの先にあった。


「流行りは廃れるが、ドラマは普遍です。心を捉える物語を描きなさい」


人間に在り、人間に抑えきれぬ『性』と対峙し続けた新藤兼人の作品が示唆を、福島で黒猫が鳴く時代に辿る。


ビデオ、DVDが出ている。
手にとって、たしかめて欲しい。




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●六ヶ月前の自分を
 ようやっと乗り越えた






【 写盤 】
http://shaban.ldblog.jp/archives/12616677.html
2012_0705 p.1(24枚)