『A代表×ベネズエラ』のまえに

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こないだのA代表×ウルグアイという花試合(0-2でウルグアイ)についてメモをとっていたのだが、長くなりそうだから今度にしようかと思っていたタイミングで発達障害についてのリツイートを読み、次いで自閉症を研究してるドクターが「今までは自閉症患者が健常者と同じようにできない点を問題化してきたのだが、これからは、自閉症患者が何に喜び、何を楽しみ、何をしているときに脳が活性化しているか ―― そして、それをどう伸ばすかを研究すべきですし、そうなりつつあります」と言ってたことを思い出し、あらためて男子サッカー日本代表について考えているのでスケッチしていく。

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酷いだろうと思いながらテレビを点けた『A代表×ウルグアイ戦』、思った以上に酷かった。

「監督交代して初集合、三日目くらいの初戦じゃ、ろくな試合にならない。監督が変わったばっかりだからね、仕方ないよね」というのは誤解だ。

四年間も準備したW杯の直後の試合、花試合気分のウルグアイが相手だった。また、新チーム発足といったって「初対面ですね、こんにちは」のお見合いじゃない。新チームにはW杯メンバーの7〜8割が残っている。一緒にプレーしてきた仲間と培ったコンビネーションを利用するとか、個々に判断して創造的に(ゴールのイメージから逆算して)仕掛けたり、各々「勝つため」から逆算すれば選択肢も複数挙がり、そのつど責任を持ってプレーを選び、相手を倒すことに集中すればチームとしての連動はなくても勝負の緊張感や強度はテレビを通してでも伝わってきただろう。たしかにチーム集合から数日では監督のサッカー哲学、ノウハウ、指導法、システム論からその実践方法など ―― チームを作るうえで欠かせない諸要素はさわりしか感じられないだろうが、上に書いたように選手個人に個人戦術が身についていたらある程度の攻守の質は保たれるし、強度のあるゲームができたのではないか。

でも、このウルグアイ戦、試合にならなかった。
花試合にしてはユーモアもウィットもなく、真剣勝負のシリアスな価値からも程遠い、どこにも魅力がないゲームで、お金を取れるクオリティじゃなかった。それと、日本選手の多くが「命令されないと動けない」という本性が露になっていたと思う。彼らは監督が変わり、やり方が新しくなったことで戸惑い、サッカーの基礎・原則・ルールは同じなのに、少年時代から何千回と試合をしてきているだろうに ―― ピッチ上で何をしたらいいかわからなくなっているように見えた。これを「召集から三日だし、ダメでも仕方がない」で終わらせていいのか。問題はどこにあるのか。

現状、「あるシステムやルールの強制や暗記、ストーリーの後押しがなければプレーに迷い、判断が遅れ、自信も目減りする。しかし、指令が行き届き統制・統率がありさえすれば備えている能力がピッチ上で発揮される」というパーソナリティの選手が多いのだと思う。ほとんどの選手が隣の選手や監督の顔を見ながらプレーしている。ミスを恐れ、チームの輪から離れることを考えられず、命じられないと動けない。考えて判断する、という具体性がイメージできていない。というよりも、個人を意識したり、引き受けたり、複数の選択肢のなかから状況に応じて最適な方法を選んだり、ときには作り出すようなノウハウ・スキルを覚えたり、身に付けたり、必要とされる機会に触れられず育つのが日本社会だし、そこから出てきたサッカー選手、代表選手を責めることはできない。それは日本社会の仕組みがそうさせているのだから、この先も相当の何かが起きない限り(起こさない限り)変わらない。中田英寿さんのような自意識バリバリで人を選ばす意見を言う、一方で言ったことの責任も引き受けるというタイプは突然変異のようにしか出てこない。

それで、
「どうやったら短期的な結果が出るのか」
「長期的なポジティブな変化は、どうしたら呼び込めるか」
「それは日本人選手の多くが間違っているということなのか」
「日本人選手のそういう癖をうまく活用する発想ではやれないか」
「男子代表チームの強化、改革を求めるとしたら、どこからはじめたらいいのか」
「外国人監督でそれが可能なのか」
「サッカーってなんのためにあるんだ?」
「サッカー選手として強くなるように育てるとしたら、日本で暗黙の了解として共有されてきたノウハウ・処世術とは全く違う哲学や信条を教えることになるので、もしかしたら少年は日本社会では生きにくくなるかもしれない。だとすれば、強化の推進や伝播をする上での論拠、正当性、裏づけはどこに置くのか」
「で、どうしたらいいと思ってるんだ、黒川は」
という話などがあり、一まとめにはできない。

ひとつ言うと、日本の男子サッカー代表チームに短期的な結果(勝利や主要大会での上位進出)を求めるなら、「選手をロボットのように扱う独裁者タイプの監督」に任せ、「規律・命令・役割意識・ストーリー・システム」を徹底的に刷り込んでもらえばいい。監督は外国人で、世界的な人物であり、わかりやすい実績や肩書きを持っていることが望ましい。
皮肉ではなく現実的な話をしている。マスコミが煽り、協会が望んでいる「結果」というのは、日本社会に精神的な革命でも起こらない限り、このようなチームでしか実現できないし、このようなチームであればW杯であろうとかなりの水準で戦えるはずだ。

こういった分析をふまえ「結果? それが出ればいいのかな?」とおれは思っている。それと、選手が「結果を出す」と言うたびに、自律性を身に付ける契機がないままある程度の年齢になってしまっていることや、格上のチームと戦いながら勝利し続けることを求めるなら、かなり際どくて窮屈なやりかた以外難しいと思うけれど、それらについてはどう思っているのか、という疑問が浮かぶ。


まとまらない。論立てられない。
頭が重たくなってきた。
でも、あと三〇分で始まるベネズエラ戦前に、メモしておきたい。まとめられない、情けないからといって捨てたくない。気になってるし、これは違うと感じるし、書き止めておきたい。
ポイントを箇条書きで。


・このような傾向は日本男子サッカー代表だけの話しなのか?

・他の団体スポーツの男子代表にも通じる症状だと思う。

・ただ野球はちょっと別で、それは野球に世代を超えて共有される歴史や伝統があること、国技のような自意識、国際的なスポーツではなとしても日本は世界的な強豪国で一流プレーヤーも何人もいる。
・野球が個人スポーツ的な要素の組み合わさった競技だから、団体スポーツのなかでも変種で、集団に隠れたり覆われる状況がサッカーより少ないという点も、野球選手の自律性の獲得に作用してるかもしれない。
・平均年齢の高さ(30代、40代の現役選手の数)にも意味があるはず
・ただ日本の野球には野球固有の(高野連をはじめとした組織など)問題もある

・育成については、日本の歴史、教育、社会環境、対人関係の慣習 ―― 思想や政治、文化的・宗教的な背景を抑える必要があるので、いわゆる「日本人の長所」からサッカーを考えていくとしたら、外国人じゃ難しい。かといって日本人であろうと、先に書いた要素を意識していなかったら、外国人がやるのとたいしてかわらない

・「日本人の長所を活かしたチーム作り」という想像力は、「日本人にもいろんな日本人がいる」というミクロの視点を欠いてると意味をなさない。

・たとえばW杯に参加する日本代表チームは、日本国籍を有する23名で構成されるが、たった23人なのだから、そのときのチームに性格的な偏りがあったり特徴が出たりする。前もって「日本人らしいサッカー」というスローガンを掲げようと、この23人のパーソナリティとサッカー選手としての能力をいかに掛け合わせるかという作業になる。じゃあ「日本人らしいサッカーをする代表チーム」という命題は何のためになるのか、なぜ必要なのかも考えなきゃならない

・たぶん日本サッカー協会が理想としてる「日本人のよさを活かし、組織力と連動性を高め、さらには個の能力も随所で発揮される創造的で運動量のあるサッカー」をやるには、おれは選手に自律的な精神、運動、判断や対応力が不可欠だと思うけど、自律性を身に付ける機会をもたずに育った大人が、どうやって子供にそれを教えるのかを考えないと、空論のまま時間だけが過ぎる

・また、自律性を高めていくことはサッカー・プレイ・チーム・ピッチ上の選手にとってはポジティブだろうが、他律的でいるほうが楽に過ごせる日本社会の中で、自律的になっていく少年・少女の生活、それからの人生はどうなるのかという懸念もあるよ、とさっき書いた。独自に考え、生きていこうとする人間を励ましたり、意見が違うときに話し合ったり求め合ったりしながら暮らしていく気持ちはあるのだろうか。彼ら彼女らは顔色を探ったり空気を読むなんてしないよ? あなたにとったら面倒なことなのではないのか?

自閉症患者に付き添い続けてきたドクターの「今までの、自閉症患者への“できないことを潰していく”やりかたは結局は患者の自信を失わせ、総合力も落としてきた」という冒頭のリツイートにつながるのだが、「日本人選手は命令されなければ動けない」のだからまず「徹底的に命令する・規則で固める・ぎっちぎちにルール化する」ようにやりつつ、長期的なビジョンに近づけるようにやっていくしかないのでは、というのがひとつ、書きたいことだった

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・おれは「日本人」とここに書いてるが、書くたびにノイジーなものを感じている。それは誰のことなのか。一人づつ違う人間を名称や形容詞でくくるってなんだよ、失礼だし、その「日本人さん」連れてこいよ、話はそれからだ、という憤りだってある。

・「日本人」は便宜的、暫定的な物言いでしかない。いま、なにを書くために、どういう主体・視野・レベルが必要で、この言葉を使ってるのかというところは常に意識していたい。

・「日本人」という主語で書くような話は、問題にしないほうがいいとも思うが、それではゼロになってしまう。間違えていたり、訂正が必要だというところまで行けるかもしれないし、そこまで行きたいと思うので、いまは「日本人」と書いて進んでいく。

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・日本人の心の癖をふまえた上で、長期的なヴィジョンに照らし合わせながらやっていくのでなければ、監督を変え、そのやり方に染まり、そのつど結果が変動しても、それはそういうことでしかない。アギーレがW杯で日本をベスト8に連れてったとしても、だからって何かが変わるわけじゃない。浮き沈みの浮きのタイミングが来ただけ。

・そういうことを繰り返していくのがサッカーなのか?
・もっと可能性があるのでは?
・たとえば、おれはサッカー選手たちが、本質的な意味・認識・把握でもって「ピッチ上で独自に判断し、個人技術・戦術にもとづいてプレーできる」ようになるほうが、様々な観点から、よい、と思っている。今のままじゃ絶対に無理だけど、これが実現されたときは、日本にとって革新的なこと起きた証だろうな、と。

・サッカーの楽しさ、役割、可能性とはなんだろう?

・サッカーってなんなのか、なぜサッカーをするのか、サッカーを見るのか

・こんな日本人論なんて書きたくないし、どうでもいいとも思っている。日本にサッカーが根付かなくても、代表チームが世界の三流レヴェルだろうと、サッカーは面白い。

・ゲームの中身のこと、ルールやシステムや運動や技術にそなわる魅力のこと、試合のなかに流れる時間のこと、一試合に30からある視点の交錯と影響を及ぼしあっている内実のこと、国々の歴史のこと、クラブごとにある歴史的背景やストーリーのこと、人の流れやお金の動きのこと ――

・言葉で全ていえないにしても、言えるように考える、と同時に、増殖しがちな言葉を削ぎ落としていきたい。

・こうすることでサミュエル・ベケットの想像力を想像し、追体験したいという山っ気もある

・なにをバカなことをいってるんだと思いつつ、いま書かず後回しにはしたくないし、なかったことにもしたくないと思うようになってきた。

・うまく言えないからといって、だからなんなのか。
・おれは、ひとがなにかをうまく言うことを求めていないのだから、いいじゃないか、じぶんがうまく言えなくったって、うまく言えなくったって伝わるし、汲んでくれるはずだ、という託す気持ちで書いている

・要所要所、書き込みも足らないが、トピックだけでも出していたい。できれば意見や議論を呼びたい。知らないことを知りたい。教わりたい。

・自分が好きなスポーツと、そのスポーツを見せてくれる選手、監督、コーチ、スタッフ、クラブ関係者 ―― 国籍も年齢も性別もどうでもいい、サッカーを好きな人がより豊かに実現できるように心から願っている。


本田圭佑のように放言を謝らず、なにも問題はなかったかのように振舞う選手は、ピッチ上で説得力や責任感のあるプレーができるだろうか。本田の扇情に乗ってしまう ―― あるいは表立って「自分はそうは思わない」と提案・発言できない選手が、試合中の厳しい局面で自覚を持ったプレーを選択・実行し、チームを助けられるだろうか。こういった選手たちに問いかけることをせず、説明を求めずにあたらしい話題や経済の媒介でしかないメディアの不感症は、サッカーの質をポジティブにするんだろうか。

・サッカーがあって自分が存在できる人は、贈り返さずに消費・消耗させるだけでいいのか。

・代表や選手を取り巻く大人たちに責任感が薄いから(全員とは言わない。個人的に分析している人もいるし、少ないけどレポートも読んだ)、選手たちの無責任さを問わないのだし、気づきもしていないということはわかるが、こういった無責任さを看過することは、なによりも将来のサッカー担う子供たちに悪影響があると思う。

・子供たちが大人になったとき、自分で考え、実践し、どんな結果でも引き受けるという心構えがあったほうが、やっぱり、よいプレーが、彼ら彼女らにとって質の高いプレーが、そのときにできるのではないかと想像する。アリバイなんて出せない、これはおれの妄想・夢想に過ぎないが、そう思うから書いておく。

・また、自律性(散々使ってきてなんだが、もっと適当な言葉を見つけたい)の必要性に気づくのが遅くなったり、ぼんやりしたままプレーし続けるとしたら、その状態はあなたの成長やポジティブな変化を助けないし、チームの成長を阻む要因にだってなるのではないかと思う。

・なので舌っ足らずでも、なかったことにせず、無視せず、ひとまずここに書いておきたかった。

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ベネズエラ戦がはじまった。
今日はここまで。