書くということは映画をつくるということだった(BY JLG)


リヴェットには自分はほかの人たちのとは違う映画的真実を保持していると言いたげなところがあって、ぼくは一時期それを受け入れていたんだ。でもほかの連中と比べれば、より自立していた。ぼくはまた、より主観的な批評を書き、そのなかで映画のエクリチュールをつくり出すということをしはじめてもいる。書くということは映画をつくることだったんだ。そして、ぼくらのものだったこの独創的な発想は、あのあとはまだ再発見されていないんだ。(P9





人々も気づいているように、かつて映画と認められていたような映画、映画館で上映されるたぐいの映画は今では姿を消しつつある。そうした映画は今では、テレビとともに別のなにかにかわってしまったんだ。そしてその別のなにかを見つけ出す必要があるわけだ。でもその<別のなにか>は今のところは、テレビにほかならないものによって封じこめられてしまっている。だからこそ、だれも映画をつくる別のやり方のやり方をテレビのために考え出そうとはしなかったわけだ。(P20







映画における演出の目的は、表現することににではなく表象することにある。そして、表象しようとする大いなる努力が、バロックなもの(あるいは「装飾的なもの」「異様なもの」)のなかにはまりこんでしまってもなおつづけられるためには、カメラと映画作家とカメラマンの間に、表象される場面のための不可分の関係がうち立てられなければならない。したがって問題は、アンドレ・マルローが言っているのとは反対に、カットの連続のなかにあるのではなく、画面内部の俳優の動きのなかにあるのだ(P116









(ゴダール 全評論・全発言?)